山形地方裁判所 昭和52年(ワ)14号 判決 1988年12月26日
原告
五十嵐悦子
外四四名
右原告ら訴訟代理人弁護士
竹沢哲夫
外三二名
被告
国
右代表者法務大臣
林田悠紀夫
右指定代理人
佐藤孝明
外一〇名
被告
山形県
右代表者知事
板垣清一郎
右訴訟代理人弁護士
古澤茂堂
同
菊川明
右指定代理人
田宮良一
外二名
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 原告ら
1(主位的)
被告らは、各自、別表第一請求金額一覧表の「原告氏名」欄記載の各原告に対し、これに対応する同表の「主位的請求金額」欄記載の各金員及びこれらに対する昭和四九年四月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2(予備的)
被告らは、各自、別表第一請求金額一覧表の「原告氏名」欄記載の各原告に対し、これに対応する同表の「予備的請求金額」欄記載の各金員及びこれらに対する昭和四九年四月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は被告らの負担とする。
4 仮執行宣言
二 被告国、被告山形県(以下、「被告県」という。)
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
3 仮執行免脱宣言
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 本件災害の発生と原告らの地位
(一) 昭和四九年四月二六日午後三時五分ころ、山形県最上郡大蔵村赤松地区にある、標高一七六メートル、北側の標高約九六メートル以上は傾斜約三〇度の松山の北斜面に、幅約五〇ないし一〇〇メートル、地表面の長さ約二〇〇メートルにわたる大規模な斜面崩壊が発生した(以下、右斜面崩壊を「本件崩壊」という。)。この崩壊による土砂流は、大蔵村赤松部落の中心部がある山麓平地を、幅約一〇〇メートル、山麓からの長さ二〇〇メートルを超える範囲で襲い、死者一七名、負傷者一三名、家屋全壊一九戸、同半壊一戸という災害を発生させた(以下、右災害を「本件災害」という。)。
(二) 別表第二相続関係表一ないし一一の「相続人(原告)」欄記載の原告らは、本件災害によって死亡した同表一ないし一一の死亡者の相続人ないし近親者であり、その余の原告らは、本件災害によって倒壊した家屋等の所有者である。
2 本件崩壊の原因
(一) 本件崩壊の特徴
(1) 崩壊の形状
松山北斜面は、前述のとおり、標高一七六メートルで、標高約九六メートル以上は傾斜約三〇度であるが、本件崩壊は、その中央部の標高一三〇メートル付近から山頂までの部分では、表層の風化帯にとどまらず、基盤、基岩に属する地山深部まで最大深約二〇メートル程度崩壊しているのに対し、それより下部では、地形図等によって崩壊前と崩壊後の地形の変化を識別できる程度の大きな変化はなく、斜面剥削は一〜二メートル程度であったと認められる。これを南北方向の縦断面でみると深い椅子型を呈しており、最大深は上部崩壊部の垂直高さの四〇ないし五〇パーセント近くに達するものである。以上のとおり、標高一三〇メートル付近より上部では深い崩壊があったのに、それより下部では表層の剥削しかなかったのであるから、右崩壊の形状によれば、本件崩壊の原因は、下部斜面にはなく、上部斜面にあったものと認められる。
(2) 崩壊速度、単発的斜面崩壊
本件崩壊による土砂の崩落は、平均で毎秒一〇ないし二〇メートルという高速で起こっており、斜面から崩れ落ちた土塊は、あるものはばらばらになり流動し、あるものは上に樹木を載せたまま島状の塊で平地を滑走した。また、本件崩壊は単発的な斜面崩壊であって、松山北斜面に場所的、時間的に特有の崩壊の原因が存在したことを示している。
(3) 亜炭採掘面直上の崩壊
松山北斜面の直下には、崩壊斜面中央部で標高一一九メートル付近に厚さ0.6〜1.6メートルの上層炭とその下位四〜八メートル付近に厚さ0.3〜0.6メートルの下層炭の二層の亜炭層が存在し、松山炭鉱においてこれを昭和四三年まで稼行採掘していた。上部斜面の崩壊は、その亜炭採掘跡の直上で発生した基盤、基岩の崩壊である。上部斜面の崩壊は、斜面下部(北側)では上層炭直上の比較的厚い泥岩層を境としており、また、その西側では本格的な採掘が行われた上層三坑の採掘西端部のほぼ直上が崩壊域西端であるなど、採掘範囲、特に炭層の厚い上層炭の採掘範囲と崩壊の平面関係は良い一致を示している。
(二) 松山北斜面の成り立ち・崩積土・松山の地形・地質
(1) 松山北斜面の成り立ち・崩積土
松山北斜面は、かつて最上川の側方浸食を受け急崖を形成していた。その浸食がやんでから崖頂部は徐々に崩壊して、その崩土は山麓部に堆積した。また、斜面は沢にも浸食され、表層の土砂は同じく山麓部に堆積した。現在の松山北斜面には、崩積土は山麓部には厚く堆積するが、中腹部以上では一〜二メートル程度であって、厚い崩積土は存在しない。
したがって、松山北斜面に地すべりの履歴はなく、地すべり地形も存在しない。
(2) 松山の地形・地質
松山北斜面は、前述のとおり、山麓からの高さ約八〇メートル、傾斜約三〇度の急斜面である。また、松山の地質は、地質学上、新第三紀鮮新世に属し、凝灰質砂岩、泥岩、シルト岩が互層状に累積し、この間に前記二層の亜炭層を含め五〜一〇層の亜炭層を挟有している。これらの地層の走向はほぼ南北で、東に一〇度傾斜する単斜構造となっている。これらの地層の生成年代は若く、主要な構成岩石である凝灰質砂岩の固結度は低いが、砂岩は乱され水浸されない限り安定しており、大雨や大雪という自然条件だけで崩壊を起こすような状態にはなかった。一般に地すべりの履歴のないところに突然地すべりが発生するということはほとんどなく、事実、赤松の集落が誕生して以来、北斜面に大規模な崩壊や地すべりが発生したという記録はない。
(三) 本件崩壊と亜炭採掘
(1) 地下採掘と上位地盤への影響
松山炭鉱では、終戦後から松山中腹の前記二層の亜炭層の本格的な採掘を始めた。松山炭鉱で採用された方式は、主として前進式昇向階段払法であったが、この方式でも、一坑道の切羽の西端にすぐ二坑道の片盤坑道が接し、また、切羽と切羽とは接しているので、file_3.jpgを充填しても最終的には松山の中腹に面的に大きな空洞がつくられるものであった。松山中腹に広範囲に空洞が生じたことにより、以後上位地盤は沈下作用を受け、また免圧圏内の岩盤にはゆるみが生じた。泥岩層は沈下作用に対してたわみで対応できるが、塑性の小さい砂岩や炭層などはこれに対応できず、せん断面が入りヘアクラックが生ずる。沈下は地表にまで及び、ヘアクラックもまた地表近くに達する。また、局部的には坑道や切羽の天盤の崩落が起こり、これが繰り返された所もあった。採掘面上部、特に山頂に近い所では砂岩が優勢であったから、これらの固結度の低い砂岩層に無数のヘアクラックが発生したと推定される。こうして、岩盤は砂岩層を中心にブロック化され、岩盤の強度を著しく低下させるとともに、雨水や融雪水の地下浸透を容易にした。亜炭採掘面の上位地盤は乾湿の影響を受けることになり、風化は促進された。松山の砂岩は乱され水浸されると粘着力をほとんど失い砂状になる。また泥岩は水浸されると粘土化しやすい。松山は亜炭採掘後、雨水や融雪水の浸透を受け、砂岩を中心にその強度を低下させた。
(2) 本件崩壊後の調査結果にみられる上位地盤への影響
ア 坑道内の崩落
新潟大学の松野操平らが、本件崩壊後の斜面安定工事中に開口した上層二坑道と上層四坑道(報告書では上層三坑道とされている。)を調査したところ、両坑道とも旧坑口から数メートルないし十メートル付近までは落盤で潰れており、上層二坑道では、旧坑口から三四メートル付近で大規模な落盤が起きていてそれ以上の進行ができず、上層四坑道では、同様二一メートル付近で大規模な落盤によって塞がれていた。
また、上層三坑道は、深け掘りもされ、保安炭柱も採掘されていて坑道は全く旧状をとどめていなかった。そこでその取り開けには坑道を完全に埋めていた土砂を搬出しなければならず、新たな坑道掘削と同様な労力を費やしたほどである。
イ 調査ボーリングがとらえた空洞
本件災害後間もなくして行われたボーリング調査の結果、稼行炭層を貫通しているボーリング五本のうち、VB―一六が上位で四〇センチメートル、下位で三五センチメートル、VB―Aが九〇センチメートル、VB―一七が七〇センチメートル、VB―七が一六五センチメートルの空洞をとらえている。
VB―七の空洞は坑道の空洞で比較的旧状をとどめているものと推定されるが、VB―一六の二層の空洞はいずれも切羽の天盤が五〇パーセント前後沈下したもの、VB―Aの空洞は坑道の天盤が五〇パーセント下がったものの、VB―一七の空洞は切羽か坑道の天盤が沈下したものと推定される。
ウ 非稼行坑道の亀裂
本件崩壊斜面の東縁部標高一二四メートル付近の地点に非稼行の坑道が存在し、昭和六一年八月に原告側で調査したところ、その坑道壁面には、未採掘の粗悪な亜炭層を中心にその上下に無数の亀裂の発生が認められた。これらの亀裂は、その下位一〇メートル付近で行われた亜炭の採掘がもたらす地中沈下によって発生したものであり、また、採掘空洞上部に生ずる免圧圏内の岩盤破壊を示す亀裂である。
右亀裂の開口部は、粘土はもとより何らの異物を挟まず、破断面に何らの損傷もない。亀裂が数百年にわたって地下水の通過を受ければ、そこに粘土を挟まないはずはない。仮に粘土を挟まない亀裂が既に発生していたとしても、そこにダイナマイトをかけて坑道を掘削したものであるから、亀裂の破断面は損傷し、開口部には掘削した土砂が一杯に詰まるはずである。
また、右亀裂の走向傾斜が、坑夫が「目」と呼ぶ亜炭の割れ目のそれと同一であるのは、斜面の岩盤がクリープ現象によって、又は地下採掘による沈下によって移動しようとするとき、総じて最大傾斜方向に移動しようとすることの当然の結果である。
さらに、右亀裂が自然の営力によって発生したものであるなら、稼行炭層にも粘土の詰まった「目」のほかに、粘土の挟みのない多数の開口亀裂が存在してよいはずであるが、その存在を窺わせるような状況は認められない。
非稼行坑道の状況は、地下採掘による上位地盤への亀裂の発生と地下水浸透のメカニズムを完全に裏づけるものである。
(3) 亀裂の発生、融雪水の浸透、崩壊
昭和四一年ころまでに、松山北斜面の山頂直下に東西方向に亀裂が発生し、その割れ目は年々拡大したが、亀裂発生の原因は、劣化した北斜面のずり下がりであったと考えられる。
こうして、昭和四九年当時、松山北斜面山腹の凝灰質砂岩は著しく粘着力が低下していた。そこへ三〇年振りといわれる豪雪の融雪水が急速かつ大量に供給された。採掘面直上位には比較的厚い泥岩層が存在していたことから、そこより下位への通過が緩慢であったため、その上位の砂岩層への滞留を大きくし、また浸透水を被圧させることにもなった。この厚い泥岩層が採掘後の空洞の変形に伴ってたわみを生じていたとすれば、浸透水の滞留にはより好条件であったことになる。ここに至って砂岩はもとより泥岩の一部も粘着力が低下し、さらに泥岩の内部摩擦角も失うことになって、せん断抵抗力を大きく減少させた。併せて融雪水の浸透によって重量の増加を来し、上部地盤の見掛け比重を大きくして稼行亜炭層上位の地盤は極度に不安定化し崩壊に至ったのである。この崩壊は、表層から始まったのではなく、すべり面沿いの奥部にすべり面が形成され、それが発達して一気にせん断破壊されたものと考えられる。上部斜面の崩壊の範囲が松山北斜面下の亜炭採掘範囲と良い一致を示しているのは、偶然ではなく、右のような因果関係を示す一つの微表である。
(四) 崩壊の原因
以上のところからすれば、本件崩壊は、松山中腹の地中を亜炭採掘のため掘削したことに起因して惹起されたものであるというべきである。
3 被告国の責任
(一) 被告国の鉱害賠償責任
(1) 本件災害は、鉱害が不可避であるにもかかわらず、被告国が鉱業の実施による利益を優先させた政策により惹起されたものであり、被告国によってもたらされた制度的かつ構造的な災害であった。
すなわち、鉱業の実施は、本来、地表の沈降、土地の亀裂・陥没などの鉱害を不可避なものとして招来するものであるところ、被告国は、明治二三年の鉱業条例以降鉱業特許主義を採り、採掘そのものは、私人の施業にゆだねたものの、鉱業資源は国に属するものとして、鉱業の施業を国の厳重な監督の下において、明治の富国強兵策の下で全国の炭鉱、鉄・銅の鉱山の開発を行い、戦後の経済復興の中の傾斜生産方式により全国の炭鉱の開発、増産を行った。松山炭鉱の開発もこうした石炭増産の国家政策の下での乱開発であり、これによって本件災害が発生した。
(2) 昭和一四年旧鉱業法の改正により、それまで鉱害の発生は鉱業にとって不可避なるが故に不法行為に当たらないとして免責されてきた鉱業権者に無過失賠償の制度が採用されるに至ったが、被告国は、鉱害という危険の発生をあらかじめ熟知していながら、これを認容して、鉱業権を設定して実施させ、鉱害を惹起させる鉱業を、国の積極的な政策として強権的に推進してきたのであるから、この鉱害によって生じた損害について、被告国自ら直接賠償の責を負うべきである。
このことは、次のとおり、石炭鉱害賠償規定からも明らかである。
昭和二三年四月の閣議決定によるいわゆるプール資金制度は、国が初めて鉱害について責任をとるに至ったものである。
昭和二五年の特別鉱害復旧臨時措置法(以下、「特鉱法」という。)は、第二次大戦中の国家的要請に基づく強行出炭によって発生した鉱害について、これを特別鉱害として、国が積極的かつ主体的に国の公共事業の一環として復旧工事をすることを定めたもので、国が、鉱業権者に代わって直接鉱害賠償の責を負うことが、実体法上確認されたものである。
また、昭和二七年の臨時石炭鉱害復旧法(以下、「臨鉱法」という。)は、特別鉱害以外の鉱害地について、国庫の負担において鉱害地の原状回復を目指すもので、国の補助は、鉱業権者の賠償責任を代替しているものであり、鉱害被害に対し、国固有の賠償義務の履行としての性格を持つものである。
(二) 被告国の営造物責任
(1) 管理義務の存在
本件崩壊地一帯のほとんどは国有地であり、昭和一六年五月土砂崩壊防備保安林として指定された。右保安林は、行政法上の「公物」であって、被告国の管理者たる農林水産大臣(以下、「農林大臣」という。)が事実上管理するものである。仮に右保安林が「公物」に該当しないとしても、国が住民の危険防止を直接の目的として一定の法律的制限を課して事実上管理している有体物ないし物的設備として「公の営造物」に該当する。
(2) 管理の瑕疵と因果関係
右保安林は、土砂崩壊を防止するために指定されたものであるから、その「管理」はとりもなおさず、土砂崩壊を増大させるような行政処分をしないとの不作為義務及び土砂崩壊の危険が発生した場合速やかに崩壊防止の処置を施すとの作為義務を意味する。
しかるに、被告国は、松山炭鉱の鉱業権設定を許可し、無暴な亜炭採掘を放置して、土砂崩壊防備保安林の目的を根底から破壊し、また破壊の危険が発生した後も何ら保全処分をとらなかった。そのことによって本件災害を発生させたのであるから、その管理に瑕疵があることは明白である。
(3) したがって、被告国は、国家賠償法(以下、「国賠法」という。)二条一項に基づき、原告らに生じた損害を賠償する義務がある。
(三) 被告国の鉱業権設定の許可等による責任
(1) 違法な鉱業権設定の許可
被告国の公権力の行使にあたる公務員である仙台通商産業局長(以下、「仙台通産局長」という。)は、松山炭鉱の鉱業権設定を許可すべきでなかったのに、これを許可し、松山中腹の地中を掘削させた違法があった。すなわち、
ア 仙台通産局長は、昭和二九年八月溝口トキ外一名に対し、松山炭鉱の鉱業権設定を許可した。
イ 同局長は、当時、松山中腹の地中を亜炭採掘のため掘削すれば、松山北斜面に本件のような大規模な斜面崩壊が発生し、赤松部落の住民の生命等に危害が及ぶ危険のある次のような諸事情を知っていたか、容易に知り得る立場にあった。
① 地下の石炭を採掘すると、地表の沈下・陥没等の地盤変動や山地の崩壊現象が発生することが九州の北松地方の事例で既に知られていたこと。
② 前述の松山の地形・地質
③ 本件崩壊地の亜炭採掘跡の上部が大正一四年と昭和一一年の四月に崩壊し、同じく東南側の亜炭採掘跡の上部が昭和二三年四月に崩壊したこと。
④ 松山一帯は、豪雪地帯で毎年春の融雪期には、大量の融雪水が地山に供給され、松山の崩壊の危険性をより強めていたこと。
⑤ 本件崩壊地一帯が、前述のとおり、昭和一六年五月土砂崩壊防備保安林として指定されていたこと。
ウ 鉱業法三五条は、「鉱業出願地における鉱物の採掘が……公共の用に供する施設若しくはこれに準ずる施設を破壊し、……公共の福祉に反すると認めるとき」は許可してはならないと規定しているのであるから、仙台通産局長は、前記鉱業権の設定を許可すべきではなかったのである。
エ しかるに、仙台通産局長は、前記鉱業権設定の許可にあたり、出願地には、同法六四条該当の施設はなく、坑内掘りであるから地表への影響がないと判断したというのであるが、右判断には明らかな誤りが存在し、右鉱業権設定の許可が違法であることは明白である。
(2) 違法な施業案の認可
被告国の公権力の行使にあたる公務員である仙台通産局長は、松山炭鉱の施業案を認可すべきでなかったのに、これを認可し、保安を無視した施業をさせた違法があった。すなわち、
ア 仙台通産局長は、昭和三二年七月四日、同三四年一一月五日、同三六年一一月六日、同四二年三月二七日、同四三年一一月一九日それぞれ溝口トキに対し、松山炭鉱の施業案を認可した。
イ 松山が地形・地質、気象、人家の集落状況等すべての面で鉱業の実施には不適切であり、一旦斜面の崩壊があるときは、人命を含む甚大な災害が発生する危険があることは、右(1)イのとおりであり、仙台通産局長は、右各施業案認可当時、右事情を知っていたか、容易に知り得る立場にあった。
ウ したがって、こうした地域で坑内掘りを行うとすれば、落盤を防止し、上位地盤の沈下や山自体の崩壊を招かぬように万全の措置を講ずる必要があり、採掘率や充填方法あるいは保安炭柱の取り払いについて厳しい制限が必要である。
エ しかるに、仙台通産局長は、前記施業案の認可にあたって、手詰充填、保安炭柱の取り払い、二層の採掘という上位地盤の沈下と攪乱が必至の採掘方法を許容したのであるから、仙台通産局長の右施業案の認可が違法であることは明らかである。
(3) 因果関係
本件災害は、仙台通産局長の右違法行為により惹起されたものである。
(4) したがって、被告国は、国賠法一条一項に基づき、原告らに生じた損害を賠償する義務がある。
(四) 被告国の保安監督義務違反責任
(1) 鉱山保安監督部長及び鉱務監督官の権限、義務
被告国の公権力の行使にあたる公務員である仙台鉱山保安監督部長及び鉱務監督官は、次のような権限を有していた。
すなわち、鉱山保安監督部長は、鉱業法六三条の規定による施業案中の保安に関する事項の実施を監督し、かつ、その変更命令権を持っている(鉱山保安法二二条)。鉱山保安法でいう「保安」には、「鉱害の防止」が含まれており(同法三条一項四号)、「鉱害」とは、鉱物採掘のために地中を採掘することによってもたらされる、地表の亀裂・陥没・沈降などの一切の地表の破壊・変貌の現象を意味する。また、鉱山保安監督部長は、鉱業権者に対し、鉱害防止のために必要な相応の措置を講ずるよう命令する権限を有し(石炭鉱山保安規則三七六条の四第四項)、さらに、鉱業権消滅後も五年間は、鉱業権者であった者に対し、その者が鉱業を実施したことにより生ずる危害又は鉱害を防止するため必要な設備をすることを命ずる権限を有している(鉱山保安法二六条)。そして、鉱山保安監督部には、鉱務監督官が置かれ(同法三四条)、鉱山の保安確保の監督の任にあたることになっており、鉱務監督官は、鉱山及び鉱業の付属設備に立ち入り、保安に関する業務若しくは施設の状況若しくは帳簿、書類その他の物件を検査し又は関係人に対して質問することができる(同法三五条一項)。
鉱山保安監督部長が前記権限を適正妥当に行使するためには、鉱務監督官が鉱業の実施現場に立ち入り、検査をし、かつ関係人に質問をして収集した最新の正確で高度な科学的情報によらなければ不可能である。
したがって、鉱務監督官が、鉱害の発生を予知すべき義務を負い、鉱害の発生を予知するために、不断の調査と研究が必要不可欠であり、そのために、鉱務監督官の立入検査・質問権が認められているのである。
(2) 鉱務監督官の検査義務(鉱害予見義務)違反
鉱務監督官が、地表の破壊・変貌をもたらす鉱害を予知するためには、最小限次の事項を不断に調査・研究しておく義務がある。
ア 当該鉱山の稼行・非稼行を問わず坑道や切羽などの坑内の状況
イ 当該鉱山所在地及びその周辺地の地表の状況
ウ 当該鉱山所在地及びその周辺地の地形・地質
エ 当該鉱山所在地及びその周辺地の過去における地表の破壊・変貌の有無と、それがある場合はその歴史と成因
しかるに、鉱務監督官が本件崩壊前に松山炭鉱について行った坑内の調査は、一部の稼行坑道と採炭中の切羽についてだけであり、それも昭和四四年三月六日を最後に、その後は全く行われておらず、右のイからエまでの検査や調査は全く行われていなかった。
(3) 予見可能性
ア 鉱務監督官が松山炭鉱の地表の観察・調査・研究義務を尽くしていたならば、昭和四一年から同四二年に発生したと推定される松山北斜面の山頂直下の亀裂を容易に発見することができたはずである。
すなわち、鉱務監督官庄司徳雄は、昭和四一年四月ころ、松山炭鉱に隣接する赤松炭鉱との境付近で昭和三九年に陥没が発生したことを聞いたのであるから、この事実を重視し、同年七月一二日松山炭鉱の検査に入った時に、同炭鉱の地表の観察・調査をしていたならば、右亀裂を発見することができたはずである。その時点で発見することができなかったとしても、庄司徳雄の右陥没発生の聞き取りが、仙台鉱山保安監督部に報告され、これがその後の鉱務監督官の松山炭鉱の立入検査に生かされていたならば、以後の同炭鉱の立入検査の際の地表調査で、右亀裂を発見することは、容易に可能であった。
庄司徳雄の右陥没発生の聞き取りを、その後松山炭鉱の立入検査をした荒井癸酉郎、戸部隼人の各鉱務監督官らが知らなかったとしても、松山炭鉱及びその周辺地の調査は、当然の義務であったから、調査さえしていたならば、この亀裂を発見することは、これまた容易に可能なことであったといえる。
鉱務監督官戸部隼人は、昭和四四年三月六日の検査で「上層四坑採炭切羽は地表に近いので、地表陥没を起こさないよう地表との間に十分な保安炭柱を残す等鉱害防止の措置を講ずること」と指示していた。これは、同人が、松山炭鉱の地表陥没の危険性を、少なくとも抽象的であれ予見していたことを意味しているから、同人がこの立入検査の時に、また、それ以降の立入検査の時に、地表を調査する義務があったことに疑問の余地はない。同人が、この時、また、それ以降の立入検査の時に、松山北斜面の地表を調査していたならば、右亀裂を発見し、既に地表に影響が及んでいること、ひいては、鉱害が拡大するおそれがあることを容易に予見することができたはずである。
イ 鉱務監督官らが、右亀裂を発見していたならば、前述の地下の石炭採掘が上位地盤へ与える影響、松山の地形・地質、本件崩壊地の東側及び東南側で発生した過去の崩壊、さらに周辺地域で発生した地表の陥没、崩壊等の諸事情を併せ考え、松山北斜面の地表に重大な影響を及ぼす何らかの鉱害が既に発生していること、ひいては、これらの鉱害がさらに拡大するおそれがあることを予見できたものである。
ウ そこで、仙台鉱山保安監督部長は、松山炭鉱の地表の沈降等の測量を鉱業権者に指示し、また、その他の適切な措置を講じて(石炭鉱山保安規則三七六条の四第二項、四項)、調査・研究を開始・継続し、その測量・調査の結果等の分析・研究をすべきであった。
これを行っていたならば、より具体的に鉱害の発生とその進行と拡大、つまり、一定の気象条件等の付与によっては、松山北斜面が崩壊するに至るであろうとの予見は可能だったのである。
(4) 回避義務とその可能性
仙台鉱山保安監督部長は、指定地方行政機関の長として、被告県の防災会議の委員に就任している(災害対策基本法一五条五項一号、二条四項、昭和三七年八月六日総理府告示第二五号)。
したがって、被告国の公権力の行使にあたる公務員である仙台鉱山保安監督部長は、災害対策基本法一四条二項所定の災害防止義務を負っている。
また、仙台鉱山保安監督部長には、「都道府県及び市町村の地域防災計画の作成及び実施が円滑に行われるように、その所掌事務について、当該都道府県又は市町村に対し、勧告し、指導し、助言し、その他適切な措置をとらなければならない」義務があった(同法三条四項)。
仙台鉱山保安監督部長が、本件崩壊発生の危険を予見していたならば、右の災害対策基本法所定の災害を防止しこれを回避する措置をとり得たはずであり、少なくとも、原告らに生じた損害を回避する措置を十二分にとり得たはずである。
しかるに、仙台鉱山保安監督部長は、前述のとおり、本件崩壊発生の危険を予見することが可能であったのに、これを予見しなかったため、右の災害対策基本法所定の災害を防止しこれを回避する措置を全くとらなかった。
(5) 因果関係
鉱務監督官は、前述のように、鉱害防止のための調査・研究の義務を怠り、松山炭鉱の採掘によって松山北斜面に現実化した鉱害を予見できたにもかかわらず、これを予見せず、ひいては、仙台鉱山保安監督部長も、本件崩壊発生の危険を予見できたのに、これを予見せず、とるべき措置をとることもなく、ついに本件災害を発生させた。
(6) したがって、被告国は、国賠法一条一項に基づき、原告らに生じた損害を賠償する義務がある。
(五) 被告国の保安施設事業等の施行義務違反責任
(1) 保安施設事業の施行義務違反
本件崩壊地一帯は、前述のとおり、既に昭和一六年五月土砂崩壊防備保安林(森林法二五条一項三号)に指定されていたが、松山の崩壊の危険を抜本的に解決するために、本件崩壊の予見が可能であったのであるから、被告国の公権力の行使にあたる公務員である農林大臣(当時、以下同じ。)において、松山一帯を保安施設地区に指定し、被告国が森林の造成若しくは維持に必要な事業、すなわち、「森林土木事業その他保安施設事業」(同法四五条一項)を施行すべき義務があった(同法四一条一項)。
しかるに、農林大臣は、右指定をせず、被告国は松山一帯の保安施設事業の施行を怠った。
(2) 地すべり防止区域の指定義務違反
被告国は、被告県とともに、地すべりによる被害を除去し、又は軽減するため、地すべりを防止し、もって国土の保全と民生の安定に資する義務を負っている(地すべり等防止法一条)。
そこで、主務大臣は、この義務を達成するため、地すべり区域を指定するものとし(同法三条一項)、地すべり防止工事は、都道府県の負担によりその知事が行うこととなっている(同法七条、二七条)。本件崩壊の予見は可能であったのであるから、農林大臣(同法五一条一項二号)において、松山一帯を、地すべり防止区域に指定し、被告県の負担で被告県の知事に地すべり防止工事を施行させるべき義務があった。
ところが、農林大臣は、右指定を怠った。
(3) 因果関係
本件災害は、農林大臣の右義務違反により惹起されたものである。
(4) したがって、被告国は、国賠法一条一項に基づき、原告らに生じた損害を賠償する義務がある。
4 被告県の責任
(一) 被告県の急傾斜地法違反責任
(1) 県知事の権限、義務
被告県の公権力の行使にあたる公務員である山形県知事(以下、「県知事」という。)は、次のような権限を有していた。
すなわち、県知事は、「崩壊するおそれのある急傾斜地で、その崩壊により相当数の居住者その他の者に危害が生ずるおそれのあるもの」を急傾斜地崩壊危険区域として指定し(急傾斜地の崩壊による災害の防止に関する法律三条一項。以下右法律を「急傾斜地法」という。)、急傾斜地崩壊危険区域の土地の所有者、管理者らに対し、崩壊防止工事の施行を勧告し(同法九条三項)、又は自らが崩壊防止工事を施行する(同法一二条一項)などの権限を有していた。
県知事が、急傾斜地崩壊危険区域指定の権限等を適正に行使するためには、急傾斜地帯と急傾斜地崩壊危険箇所の調査をしなければならないことは、当然の義務である。
(2) 県知事の調査義務違反
ア 各都道府県は、建設省から、昭和四二年には急傾斜地の全国実態調査を、同四四年八月五日付けでは急傾斜地法が同月一日から施行されたことに伴って急傾斜地の再調査を、次いで同四六年一〇月一四日付けでは急傾斜地崩壊危険箇所の総点検をそれぞれ指示されていたが、さらに同四七年七月五日の集中豪雨に起因して高知県香美郡土佐山田町繁藤地区の追廻山が崩壊し死者行方不明者六〇名という大惨事(以下「繁藤災害」という。)が発生したことを契機にして、建設省から、同月一一日付けの「急傾斜地の崩壊等による災害危険箇所の総点検の実施及び警戒避難体制の確立について」という次官通達(以下「四七総点検」という。)が、各都道府県知事あてに出された。四七総点検の目的は、「土砂害による災害の発生が予想される危険箇所の総点検を別添要綱により早急に実施し、点検によって得られた結果を付近住民に周知徹底せしめるとともに、緊急時における警戒避難体制の確立に万全を期」すとともに、「必要と認められた箇所については、すみやかに急傾斜地崩壊危険区域の指定を行い、管理の徹底を期」すことにあり、その点検事項は、別添の「実施要綱」に示されているが、さらに、建設省河川局砂防部長の「実施要領」は、調査方法や調査事項をなお詳細に定めたもので、急傾斜地崩壊危険箇所の危険度の判定について、点数制基準が定められている。
イ 被告県は、松山北傾斜を含む大蔵村全域の四七総点検を大蔵村に行わせ、自らは調査していないが、本来急傾斜地の崩壊による災害から国民の生命、財産を護る義務は、都道府県にあり、知事がその任務を果たすべきものである(急傾斜地法三条、地方自治法別表第一、二七の三)から、四七総点検の実施主体は都道府県であり、被告県は大蔵村を「被告県の手足」として調査にあたらせたものである。
ウ 松山北傾斜が、右実施要綱の「傾斜三〇度以上、高さ五メートル以上の急傾斜地で人家一戸以上ある地域」に該当することは、「空中写真、地形図、地質図等で」明らかであるから、「急傾斜地帯」にある松山北斜面を、「現地で踏査確認した上、崩壊危険箇所について、傾斜度、高さ、地質、表土の厚さ、人家の戸数等詳細な診断を実施」すべきものであった。
エ しかるに、大蔵村職員は、昭和四七年八月一日から一二日までの間、大蔵村管内の災害危険箇所の総点検を実施したが、松山北斜面について右の踏査確認義務を怠った。この大蔵村職員の調査義務違反は、県知事の調査義務違反というべきである。
県知事は、このように調査義務を怠った結果、松山北斜面を急傾斜地崩壊危険区域に指定しなかった。
(3) 県知事の予見可能性
ア 県知事は、昭和四二年、同四四年、同四六年の急傾斜地の各調査結果に基づき、同四七年七月二六日山形県告示第一一四八号をもって、本件崩壊地の東に隣接する区域を急傾斜地崩壊危険区域に指定していたのであるから、四七総点検の結果を待つまでもなく、右各調査結果に基づき、松山北斜面に崩壊が発生する危険があることを予見できる次の事情を認識していた。
① 前述の松山の地形・地質
② 本件崩壊地一帯が、前述のとおり、土砂崩壊防備保安林に指定されていたこと。
③ 前述の、本件崩壊地の東側と東南側の過去の崩壊、周辺地域で発生した地表の陥没・崩壊の歴史
④ 松山の地下で亜炭採掘が行われてきたこと。
イ 県知事は、右事情を認識していたのであるから、四七総点検において、急傾斜地帯に位置する松山北斜面を実地に踏査確認すべきであった。
仮に県知事が右事情を認識していなかったとしても、四七総点検において右事情は当然に調査すべき対象であったから、その調査によって認識できたはずであり、松山北斜面を踏査確認すべきであったことに変わりはない。
ウ 被告県が、自ら又は大蔵村をして、四七総点検の実施要綱や実施要領のとおりに、松山北斜面の実地踏査を行っていたならば、次のような事情を認識できたはずである。
① 松山北斜面が三〇度以上の自然斜面で、高さ一〇メートル以上あり、危険度判定の配点基準七点に該当すること。
② 周辺山地に崩壊歴があり危険度三点に該当すること。
③ 表土の厚さ0.5メートル以上で危険度一点に該当すること。
④ 松山北斜面の想定崩壊被害範囲に人家五戸以上が存在していたこと(このことは、現地を一見するだけで認識できる。)。
そうすると、危険度の点数合計は一一点となり、危険度が最も高いAのランクに該当することを容易に認識できたはずであった。
エ さらに現地調査を行っていたならば、松山北斜面の山頂直下に、既に発生していた前記亀裂を容易に発見することが可能であった。
県知事は、前記アの①ないし④の事情、特に、松山北斜面の地下で亜炭採掘が行われてきたことを知っていたから、右亀裂を発見した場合には、その起因性と右亀裂がもつ意味・徴候及び亀裂が今後に及ぼす影響などについて継続した調査・研究をすべきであった。
そして、前述のように、被告県の防災会議には、仙台鉱山保安監督部長がその委員に就任していたから、亜炭採掘がもたらす坑内や地表などに対する影響や、その状況について十分な知見を得ることができたし、右亀裂がもつ意味・徴候及び亀裂が今後に及ぼす影響などについて調査・研究をすることが容易に可能であった。
オ このようにして、県知事が松山北斜面の崩壊危険箇所を認識することは容易に可能なことであった。
(4) 県知事の危険回避義務違反
ア 県知事は、右の現地踏査をしていたならば、当然に得られたはずの知見に基づき、四七年総点検が目的としていた次のような崩壊による危険を回避するための措置を行うべき義務があったし、これは、容易に可能であった。
① 松山北斜面が崩壊危険箇所であることを、「付近住民に周知徹底せしめる」こと。
② 「緊急時における警戒避難体制の確立に万全を」尽くすこと。
③ 松山北斜面を急傾斜地崩壊危険区域に指定し、急傾斜地法所定の崩壊防止工事を速やかに行うべきこと。
④ 松山北斜面を急傾斜地崩壊危険区域に指定し、崩壊防止工事を行う前の措置として、急傾斜地法や災害対策基本法及び四七総点検の通知の趣旨に基づき、防災の基礎主体たる大蔵村を通じて、原告ら住民に対し、松山北斜面の具体的危険性を知らせ、十分な警戒を促す権限を行使すべきこと。
⑤ 松山北斜面の亀裂について、伸縮計などを設置して継続した調査・研究をすべきこと。
イ しかるに、県知事は、いずれの措置をとることもなく、これを怠った。これを継続していたならば、松山北斜面の崩壊を具体的に予見し、危険を回避することが可能であった。
四七総点検の実施から本件崩壊までの期間は、一年八ヶ月くらいあり、県知事には十分な時間的余裕があったから、前記の回避措置をとり得たことは明らかである。
特に、松山北斜面の亀裂について、伸縮計などを設置して調査・研究を継続し、かつ、松山北斜面の危険性を原告ら住民に周知徹底していたならば、本件崩壊前に出現した雪割れの現象を、極めて危険が切迫した徴候として理解することができ、本件災害を回避できたことに疑いはない。
(5) 因果関係
県知事は、以上のように、調査義務を怠り、松山北斜面を崩壊危険箇所と認識できたにもかかわらず、これを認識しなかったため、急傾斜地崩壊危険区域に指定せず、かつ、崩壊防止工事施行等の義務を怠った。そのため、本件災害を発生させた。
(6) したがって、被告県は、国賠法一条一項に基づき、原告らに生じた損害を賠償する義務がある。
(二) 被告県の保安施設事業等の施行義務違反責任
(1) 保安施設事業の施行義務違反
本件崩壊地一帯は、前述のとおり、既に土砂崩壊防備保安林に指定されていたが、県知事は、崩壊の危険があったのであるから、被告国が、前述のように、保安施設事業を施行しない場合は、住民の生命、身体及び財産を災害から保護するため、自ら松山一帯の保安施設事業を施行すべき義務があり、その実施のため農林大臣にその旨の申請をすべき義務があった(森林法四一条二項)。
しかるに、県知事は、その申請をせず、保安施設事業の実態を怠った。
(2) 地すべり防止工事の施行義務違反
都道府県は、自らの負担で地すべり防止工事を施行しなければならないとされているから(地すべり等防止法七条、二七条)から、県知事は、農林大臣に意見を具申して、松山一帯を地すべり防止区域に指定させ、地すべり防止工事を施行すべきであった。
しかるに、県知事は、これを怠った。
(3) 因果関係
本件災害は、県知事の右義務違反行為により惹起されたものである。
(4) したがって、被告県は、国賠法一条一項に基づき、原告らに生じた損害を賠償する義務がある。
(三) 被告県の防災義務違反責任
(1) 被告県の防災会議と仙台鉱山保安監督部長
被告県は、被告国とともに防災義務を負っており、被告県の防災会議の委員に被告国の仙台鉱山保安監督部長が就任していた(災害対策基本法一五条)。これは、仙台鉱山保安監督部長の職務権限による知見(知るべきであった知見も含む)を、被告県の防災会議の遂行に生かすためである。
したがって、仙台鉱山保安監督部長が職務権限上、予見すべく、かつ、予見できた事象は、被告県の防災会議もまた、予見すべく、かつ予見できたものといわなければならない。
(2) 被告県の防災会議の調査義務違反
仙台鉱山保安監督部長は、前述のように、鉱害防止義務に基づき松山北斜面の調査・研究義務を尽くして、本件災害を予見すべく、かつ予見できたものであった。
しかるに、仙台鉱山保安監督部長は、松山北斜面の調査・研究義務を怠った。これは、被告県の防災会議を構成する委員としての過失であるばかりか、被告県の防災会議の過失とみなされる。
(3) 危険回避義務違反
被告県の防災会議は、本件災害を予見できたにもかかわらず、これを予見せず、何らの対策や措置をとらなかった。
赤松部落の住民は、昭和四九年三月上旬ころ、松山北斜面の上層稼行亜炭層の上部に、赤松部落から目撃し得る東西に走る大きな雪割れ現象を発見し、同月二八日ころ大蔵村役場に通報し、大蔵村の吏員は、その後現地調査をした上、これを被告県に連絡した。仮に、被告県が大蔵村から連絡を受けていなかったとしても、仙台鉱山保安監督部長が認識できた以上、県知事は、右雪割れ現象を認識すべきであって、それが可能であったとみなされるから、災害対策基本法(五〇条二項、七〇条一項等)や被告県の防災計画に基づき、避難等の措置をとるべきであったとみなされることに変わりはない。
このようにして、県知事は、災害対策基本法及び被告県の防災計画に基づき、本件災害を予見予測し、原告ら住民に対する避難の指示などの災害応急措置をとるべきであったのに、これを怠った。
(4) 因果関係
本件災害は、右調査義務違反、危険回避義務違反により惹起されたものである。
(5) したがって、被告県は、国賠法一条一項に基づき、原告らに生じた損害を賠償する義務がある。
5 原告らの損害
(一) 死亡による損害(主位的請求)
原告らが主位的に請求する死亡による損害は、次のとおりである。
(1) 逸失利益
本件災害によって死亡した者と、その当時の職業は次のとおりである。
死亡者 職業
山下チヨコ 家事従事
五十嵐栄太郎 農業手伝兼小学校宿直員
五十嵐フク 家事従事
五十嵐菊太郎 農業兼季節労働従事
五十嵐ケサノ 右同
八鍬貢 畜産兼農業手伝
佐藤ヤエ子 家事従事兼農業手伝
佐藤正一 農業手伝兼季節労働従事
小屋守 東京で会社員
八鍬英一 中学二年
山下ミドリ 理容師兼家事従事
八鍬英一を除く右死亡者個々人の死亡当時の収入額及び生存していたならば得られるであろう将来の収入額を確定的に証明し得る資料を求めることは事実上不可能である。
そこで、家事に従事していた者を含め、いずれも労働に従事していた以上、各死亡者に相応する賃金センサスによる平均賃金に基づいて逸失利益を算定することとし、死亡後の賃金上昇を加算し、就労可能年数を六七歳とし、高年令者について平均余命の二分の一とした。また、生活費控除率については、死亡者の家族構成、その中における地位等を斟酌し、一律に四〇パーセントとするのが妥当である。このようにして、ホフマン複式により中間利息を控除して、各死亡者毎の死亡当時における全逸失利益を求めると、別表第三逸失利益算出表(1)ないし(11)のとおりである。
なお、個別的に検討すると、亡五十嵐菊太郎は、水田約一町二反、畑約三反歩を耕作しながら、冬期間は東京方面に出稼ぎに行っていた。当時の出稼ぎによる月収が約一〇万円であった。出稼ぎ期間を六ヶ月として、その収入は約六〇万円となる。また、農業所得については、山形県農林水産統計年表によれば、耕地面積が1〜1.5ヘクタールの場合、平均一四九万円であり、同人の寄与率を八割とすると、同人の農業収入は約一二〇万円となる。右計算によっても、同人の年収は約一八〇万円となり、賃金センサスによる平均賃金(死亡当時約一八六万円)とほぼ同額であるから、同人が右平均賃金に相応する収入を得ていたことが推定できる。
亡五十嵐ケサノは、子供三人の母親としての主婦の傍ら農業に従事し、かつ、季節労働者として日収約三〇〇〇円を得ていたので、同女の一日の労働価値を最低限一日三〇〇〇円とみることができる。月二五日労働したとして、年収九〇万円となる。この金額は同女死亡時点の賃金センサスによる全国平均賃金(年収約九三万円)とほぼ同額である。同女の場合、農業にも従事し、その寄与率を二割とみると、農業収入だけで年収約三〇万円となるのであり、いずれにせよ、同女の労働価値を平均賃金とみることは全く妥当である。 亡小屋守の場合、死亡当時東京都三鷹市にある正栄食品に正社員として勤務していた。当時の収入額を証明する資料はないが、東京における賃金水準からして、賃金センサスによる全国平均賃金を下回ることがないであろうことは当然に推定できる。
右のとおり、いずれも平均賃金を基礎として、その逸失利益を算定することが妥当性を有すること明らかである。
また、八鍬英一の場合は、賃金センサスの一八〜一九歳の給与額を基礎としてホフマン式係数を用いて逸失利益を求めた。
(2) 慰謝料
各死亡者は、いずれも本件災害によって生命を奪われ、愛する家族を残してこの世を去らざるを得なかったのであり、その精神的苦痛は甚大である。
原告らは、家計の中心を現に担い、あるいは近く中心を担うべきはずであった死亡者の慰藉料を一五〇〇万円として請求する。
(3) 相続
原告佐藤茂、同佐藤正子、同八鍬なみ子、同井之川久美子及び同田中さゆりを除く別表第二相続関係表一ないし一一の「相続人(原告)」欄記載の原告らは、これに対応する死亡者の逸失利益及び慰藉料請求権を、それぞれその相続分に応じて「相続額(主位的)」欄記載のとおり相続した。
(4) 近親者固有の慰謝料
原告佐藤茂及び同佐藤正子は、亡佐藤正一の弟妹として、それぞれ固有の慰謝料一〇〇〇万円を請求する。
また、原告八鍬なみ子、同井之川久美子及び同田中さゆりは、亡八鍬英一の姉妹として、それぞれ固有の慰謝料四〇〇万円を請求する。
(5) 葬祭料
原告山下善太郎は亡山下チヨノの、原告五十嵐悦子は亡五十嵐栄太郎、亡五十嵐フク、亡五十嵐菊太郎及び亡五十嵐ケサノの、原告八鍬芳蔵は亡八鍬貢の、原告佐藤登は亡佐藤ヤエ子及び亡佐藤正一の、原告小屋マツ子は亡小屋守の、原告八鍬博見は亡八鍬英一の、原告山下勝也は亡山下ミドリの各葬儀を営み、墓碑を建立するなど葬祭料を支出した。そこで、各死亡者あたり七〇万円を請求する。
(二) 死亡による慰謝料(予備的請求)
原告らは、予備的に、死亡による損害を一体としてとらえ、慰謝料として一括して請求することにし、その額は、死亡当時一〇歳代の者については二〇〇〇万円、二〇歳代から五〇歳代の者については三〇〇〇万円、七〇歳前後の者については一〇〇〇万円とする。 別表第二相続関係表一ないし一一の「相続人(原告)」欄記載の原告らは、これに対応する死亡者の右慰謝料請求権を、それぞれの相続分に応じて「相続額(予備的)」欄記載のとおり相続した。
(三) 物的損害
(1) 定型的損害額算定方法の必要性
ア 家屋、作業小屋について
家屋、作業小屋について、個別的に本件災害時の原価を算定するには、建築時の建築費が判明している場合は、これに消費者物価指数又は建築費指数等を乗じ、建築費が不明の場合は、同じ構造の建物を建てる場合に必要とされる建築費を算定し、これらに何らかの経年減価をして現在価を算出することが考えられる。しかし、右算定方法については、次のような問題点が存し、いずれも採用できない。
① 家屋には建築時期が比較的古いものが多く、建築時の建築費を明らかにすることがほとんど不可能である。
② 我が国においては、昭和二〇年代初めの終戦直後、昭和三〇年代の高度成長期、昭和四八年〜五〇年代の狂乱物価時等には物価が激しく上昇したことは公知の事実であり、消費者物価指数又は建築指数を使用したとしても、建築費の合理的な現在価格を算定することができない。
③ 近年の建築材料や建築様式の変化は著しく、同じ建物を建築することを仮定して現在価格を算定することができない。
④ 経年減価をする方法について、事件に即した合理的減価方法が存在しない。すなわち、通常採用されている減価償却の方法は、本来企業のコスト計算の方法として考えられたものであり、できるだけ早急に減価させ、償却済みにすることを主目的にしているのであって、本件のように長年にわたり自宅の居住用に使用している建物の価格を算定するには不適切なものである。この減価償却の方法では、短期間に価格が零または零に近くなるのであり、本件でも家屋については無価値であったことになりかねないのであって、不合理は明らかである。
⑤ 各家屋には建築後いずれも多数回にわたる改築、補修が行われており、また不断に手入れがされているのであるから、建物の価値は経年減価するだけでなく、増加し、あるいは維持されているが、これについて正確に評価することは不可能である。
以上の理由から、家屋、作業小屋については、被災した建物がほぼ同様の状況であったことを考慮して、一律の金額で請求をした。
イ 家財について
農機具、家畜、穀物を含めた家財の損害算定については、次のように、特に定型的な算定方法を採用する必要性が高い。
① 土砂中に埋没した家屋、作業小屋にどのような家財が存したかを、正確に挙げることは困難であり、特に死亡者の所有物については不可能に近い。また複数の人間が長期間居住している家屋、作業小屋内には、大小様々の家財があり、現に使用されているものもあれば、押入れの奥に仕舞い込まれているものもある。
② そして、仮にある程度の家財道具が思い出せたとしても、右家財の時価を正確に算出することは、家屋の場合に比して一層困難である。いつ、いくらで購入したかを思い出せるものはむしろ例外である。また、相続、贈与等により取得した家財については、取得時期、価格が不明である。
③ さらに個々の家財については、購入又は取得してから一定の期間が経過している物が多いが、これらの家財は第三者に転売することを目的とするものではなく、長期間大切に使用されるのであって、一律に耐用期間や減価償却を考えることが不相当である。このことは、原告らが長年所有している仏壇、祭礼用の大量の膳等を考えれば明らかである。 ④ このような家財について定型的な損害額算定方式として損保方法による算定も考えられるが、損保方式は、主として都市部の勤労者家庭を対象として、家族構成、年収、建物の広さ等を基準として、一家庭に存在する家財を算定するものである。原告らは農家であり、その所有していた家財にも後述のような特殊性があり、家財の総金額としては必ずしも都市部のサラリーマン家庭より少ないとは考えられず、直ちに採用することには問題もある。
以上の理由から、家財については、一軒あたり二〇〇万円という明らかに低額すぎると思われる一律請求をした。
(2) 家屋
原告山下善太郎、同八鍬芳蔵、同佐藤登、同小屋マツ子、同八鍬博見、同山下勝也、同五十嵐軍次郎、同五十嵐サタエ、同小田島留義、同小田島寅吉、同加藤藤一郎、同佐藤武平、同三原芳助、同八鍬巖、同八鍬トメヨ、同大竹清、同五十嵐政芳及び亡五十嵐菊太郎(原告五十嵐悦子、同高田美智子及び五十嵐佳子の父)がそれぞれ所有していた家屋は、本件災害により倒壊しその効用を失った。
右原告らは、右家屋について、一律五〇〇万円を損害額として請求した。
右原告らは、本件災害、その復旧作業等によって、倒壊した家屋の現況を客観的に証明し得る資料を紛失するに至った。右原告らの記憶に基づく当時の家屋の床面積、建築した年、特徴、その後の増改築の経過等は、別表第六の建物評価の資料一覧表の「家屋床面積(坪)」「建築年」「備考」の各欄記載のとおりである。
損保方式に基づく算定の大前提として、建物の外装、構造、内装、建具、設備の内容、程度が不可欠であるが、この特定が不可能であるから、便宜上、右原告らの建物が最低価格の構造であると仮定して、損保方式による再調達価額を前提とする時価を算定すると、その結果は、別表第六の建物評価の資料一覧表の「建物時価」欄記載のとおりである。
これによると、右原告らの建物のうち、その時価が五〇〇万円を下回る原告は、①山下善太郎、②五十嵐悦子ら、③八鍬博見、④山下勝也、⑤五十嵐軍次郎、⑥小田島寅吉、⑦加藤藤一郎、⑧八鍬巖、⑨大竹清、⑩佐藤登であるが、①、③、④、⑤、⑥、⑧、⑨、⑩の原告は、割合大規模に増改築、改修を行っている経過があり、かつ、その多くががっしりした柱組みの昔風の、未だ長年の居住が期待し得る建物であり、そもそも前記損保方式による建築坪単価を最低額として仮定し、計算するのが正しくないケースであり、五〇〇万円以上の時価評価ができることが明らかである。②の原告の場合には、居住成人全員死亡のため、増改築の経過等が不明であるが、現実に家族七名が十分にその効用価値を認めて不自由なく同居できていた建物であることからみても、その客観的時価が五〇〇万円を下回るとみることはできない。
以上のとおり、原告らが本訴において建物損害として一律五〇〇万円を請求しているのは、過少なものであるとはいえても、決して過大なものとはいえない。
(3) 作業小屋
右(2)記載の原告らのうち、山下勝也、大竹清を除くその余の原告らがそれぞれ所有していた作業小屋は、本件災害により倒壊しその効用を失った。
右原告らは、右作業小屋について、一律に一五〇万円を損害額として請求した。
原告らの作業小屋の状況については、別表第七の作業小屋評価の一覧表の「作業小屋床面積(坪)」「建築年」「構造」の各欄記載のとおりであり、これを基礎に便宜上最低価格の構造であると仮定して損保方式による再調達価額を前提とする時価を求めると、同表の「損保方式(再調達方式)・時価」欄記載のとおりである。一五〇万円を下回った原告でも、もともと建築坪単価を最低価額として仮定すること自体に無理があり、また、本来、本件災害に遭遇さえしなければ、今後も相当の年月作業小屋としての利用を享受することができたのであり、作業小屋としての新築の必要性が全くなかったのである。本件災害によって新たな調達を求められたのであるから、少なくともその再調達価額そのものを損害として認容されなければならない。そうすると、これらの原告の場合も、その損害額は一五〇万円を下回るはずはない。
以上のとおり、原告らが本訴において作業小屋の損害として一律一五〇万円を請求しているのは、過少なものであるとはいえても、決して過大なものとはいえない。
(4) 家財
前記(2)記載の原告らが所有していた家財は、本件災害により土砂に埋没した。
右原告らは、家財について、一律に二〇〇万円を損害額として請求した。
右原告らは、都市部のサラリーマン家庭と同様に、ほぼ全戸の家庭がカラーテレビ、電気冷蔵庫等を所有しており、箪笥等の耐久消費財についても同様である。もっとも、原告らの家庭では、背広等の所有は比較的少ないが、一方では、紋服、和服を多数所有しており、衣料品についても都市部のサラリーマン家庭と比べても決して少ないとはいえない。布団等の寝具については、むしろ右原告らの方が多く所有していることが明らかである。
また、右原告らは、都市部のサラリーマン家庭では、通常所有していない仏壇がほぼ全戸にあり、神棚を所有していた家庭も多い。仏壇は比較的高額であって、最低でも一五万円から二〇万円はすることは公知の事実であり、仏壇については減価はほとんど考えられない。右原告らは、多数の膳、宴会用の皿等を所有しており、それらは、秋田、新庄などへ特別に注文して作らせたものが多く、数十万円の価格で購入している。これらについても、減価はほとんど考えられない。
さらに、右原告らの多数がバイクを所有しており、購入時期は本件災害時に近く、購入金額も平均して一〇万円前後であった。本件災害当時、都市部のサラリーマン家庭では、バイクを所有する例はむしろ稀であった。
右原告らは、一名を除き、農業を営んでおり、多数の農機具を所有しており、購入時期は本件災害時に近い。農機具についてその内容が比較的判明している家庭では、購入価格が最高で一九五万円、平均では一〇〇万円程度であった。
また、原告らの家庭では、必ず米等の穀物、味噌等があり、家畜を飼っていた家庭も多い。
以上のとおり、右原告らは平均して一二〇〜一三〇万円前後を超える農機具、穀物、家畜等を所有していた。
右原告らが本件災害直後に作成したメモ等を基礎に、一般家財、農機具、生活品の価格を合計すると、原告五十嵐軍次郎は四七四万七七〇〇円、原告五十嵐サタエは三〇七万六四〇〇円、原告五十嵐政芳は二五五万四七〇〇円である。右三名が前記原告らのうちで耕作面積、居宅の床面積、家族数において標準的であった。記憶にあるものだけで、二五五万四七〇〇円から四七四万七七〇〇円であり、一覧表に記載できなかった家財道具を加えれば、三〇〇〜五〇〇万円となることが明らかである。
このように、右原告らの家財を、一律に二〇〇万円とするのは、むしろ過少にすぎるものであり、極めて控え目な請求である。
(四) 本件災害による慰謝料
前記(三)(2)記載の原告らは、本件災害により受けた精神的苦痛に対する慰謝料として、それぞれ二〇〇万円を請求している(原告五十嵐悦子、同高田美智子及び同五十嵐佳子は各七〇万円)。その根拠は、次のとおりである。
(1) 災害による慰謝料請求権の根拠
ア 民法七一〇条は、「他人ノ身体、自由又ハ名誉ヲ害シタル場合ト財産権ヲ害シタル場合トヲ問ハス」加害者は「財産権以外ノ損害」に対しても賠償すべきものとし、人格的利益のほかに、財産権の侵害の場合にも慰謝料の賠償を認めている。
イ 災害及び財産権侵害による慰謝料請求権が認められる要件として次のことが考えられる。
① 加害方法が著しく反道徳的であったこと。
② 加害者が被害者に著しい精神的苦痛を感じせしめる状況のもとに加害行為が行われた場合。
③ 被害者にとって特殊的に主観的精神的価値を有する物に対する加害の場合。
④ 災害により受けた精神的苦痛が財産的損害の補償によって慰謝されない場合。
ウ 右は財産に対する損害について慰謝料を認める場合の要件であるが、近時、水害、ガス爆発事故による災害につき、財産的損害が補償された場合において慰謝料請求が認められてきている。
(2) 本件災害の特殊性
ア 災害の甚大性
原告らの中には、本件災害によって、祖父母、父母、兄弟、姉妹を喪くした者もいる。原告らは、家屋、家財道具、農機具、家畜、田畑等のすべての財産を瞬時に失ったものである。被災者も多数であり、各被災者は、生活の基礎そのものを破壊され、回復不能の被害を受けた。
イ 原告らの恐怖
原告らは、先祖から住み慣れた土地において平穏な生活を営んでいた。ところが、突如襲った本件災害により、前記のような甚大な被害を受けたものである。その後原告らは、その被害惨状が脳裏から消え去ることのない恐怖として残り、現在に至るも消え去ることがない。
ウ 被告らの一方的過失
本件災害につき、原告らに全く責任がない。本件災害は、被告国の違法な鉱業権設定、保安監督義務違反、保安林管理義務違反、被告県の防災対策実施義務違反などの過失によって甚大な災害を発生せしめたものである。
エ 互換性のない被害(立場の交換の不可能)
本件災害の特殊性は、互換性のない被害を原告らに与えていることである。近代民法の過失責任は、加害者と被害者の立場の交換可能性があることを前提として構成されている。例えば、交通事故の場合、被害者が加害者として何人かに被害を与える可能性が常に存在する。原告らの被害は本件災害によるものである。原告らは、山崩れを発生させ、他人に被害を与えるということは絶対にあり得ない。原告らの被害は、立場の互換性のない被害というべきであり、被告らの責任は重いというべきである。
オ 原告らの災害後の日常生活について
原告らは、本件災害直後は、住む家もなく、親族方、学校などに住む状態であった。その後、被告県提供の仮設住宅を提供され、そこに移転したが、部屋は一間か二間であり、風呂は共同利用という不便なものであった。原告らは、一年半後自力で新築し、移転したが、このような不自由な生活を長期間にわたり営んでいたものである。原告らは、家屋を新築し、家財道具、農機具等をすべて購入し、再出発を余儀なくされた。そのために多大の借財を負い、その支払いに現在も苦しんでいる。
カ 裁判の長期化
原告らは、本件災害の責任を明らかにし、二度とこのような災害の発生がないように、また、適正な補償を求めるために本件訴訟を提起した。被告らの理由なき争いにより、訴え提起以来一〇年の長期にわたっている。その間の原告らの経済的・精神的苦痛は計り知れないものがある。
(3) まとめ
以上の諸事情からみれば、原告らの本件災害による財産損害及び精神的苦痛の慰謝料請求は認容されるべきものである。
(5) 弁護士費用
原告らは、請求金額の一〇ないし一五パーセント相当の手数料及び報酬として、主位的には別表第四の損害金額一覧表(一)の「弁護士料(円)」欄記載の金員を、予備的には別表第五の損害金額一覧表(二)の「弁護士料(万円)」欄記載の金員を、損害金として請求する。
本訴の遂行には、本件災害の特殊性から法律知識はいうまでもなく、地質学、鉱山学等の自然科学等の諸分野の専門的知識の理解と適用が不可欠である。弁護士に委任することなくして、原告らの救済は不可能である。そこで、本訴の提起、遂行を山崩れ弁護団に委任したのである。
したがって、原告らが本訴の提起・遂行を右弁護団に委任することに伴って出捐することになった金員は、被告らの本件不法行為と因果関係のある損害である。
6(まとめ)
よって、原告らは、被告らに対し、各自、損害賠償として、主位的には、別表第一請求金額一覧表の「主位的請求金額」欄記載の各金員、予備的には、同表の「予備的請求金額」欄記載の各金員、及びこれらに対する本件災害の日の翌日である昭和四九年四月二七日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する被告国の認否及び主張
(請求原因に対する認否)
1(一) 請求原因1(一)の事実は認める。
(二) 同1(二)の事実は知らない。
2(一)(1) 同2(一)(1)のうち、松山の標高、松山北斜面の傾斜が原告ら主張のとおりであること、本件崩壊の素因が下部斜面にはなく、上部斜面にあったことは認めるが、その余の事実は否認する。
山頂から中腹までの部分は、深さ最大一七ないし一八メートル、中腹から山麓までは深さ最大一〇メートルにわたって崩壊したのである。
(2) 同2(一)(2)のうち、松山北斜面の直下に原告ら主張のとおりの二層の亜炭層が存在し、松山炭鉱がこれを昭和四三年まで稼行採掘していたことは認めるが、その余の事実は否認する。
採掘範囲は、本件崩壊地の東、南、西側にも広がっている。
(二)(1) 同2(二)(1)の事実は否認する。
(2) 同2(二)(2)のうち、松山の主要な構成岩石である凝灰質砂岩の固結度が深層部についても低いこと、砂岩が乱され水浸されない限り安定しており、大雨や大雪という自然条件だけで崩壊を起こすような状態になかったことは否認し、その余の事実は認める。 (三)(1) 同2(三)(1)のうち、松山炭鉱で終戦後から松山中腹の二層の亜炭層の本格的な採掘が始まったこと、松山炭鉱で採用された採掘の方式が前進式昇向階段払法であったことは認めるが、その余の事実は否認する。
(2)ア 同2(三)(2)アのような松野報告があることは認めるが、その余の事実は否認する。
イ 同2(三)(2)イのうち、ボーリング調査の結果、原告ら主張のとおりの空洞がとらえられたことは認めるが、その余の推定は争う。
ウ 同2(三)(2)ウのうち、原告側が本件崩壊斜面の東縁部にある非稼行坑道を調査したところ、その坑道壁面に亀裂の発生が認められたことは認めるが、その余の事実は否認し、主張は争う。
(3) 同2(三)(3)のうち、昭和四九年に松山北斜面に記録的な豪雪の融雪水が急速かつ、大量に供給されたこと、採掘面直上位に比較的厚い泥岩層が存在していたことは認めるが、その余の事実は否認する。
(四) 同2(四)の事実は否認する。
3(一)(1) 同3(一)(1)のうち、明治二三年の鉱業条例以降鉱業特許主義が採られていることは認めるが、その余の事実は否認し、主張は争う。
(2) 同3(一)(2)のうち、昭和一四年旧鉱業法の改正により鉱業権者に無過失賠償の制度が採用されるに至ったことは認めるが、その余の事実は否認し、主張は争う。
(二)(1) 同3(二)(1)のうち、本件崩壊地の一部に国有林があること、崩壊地の民有地の一部が昭和一六年五月土砂崩壊防備保安林に指定されたことは認めるが、その余の事実は否認する。
本件崩壊地のほとんどは民有地で、山頂付近にわずかに国有林があるが、保安林ではない。崩壊地の東側側端部にわずかに保安林があるだけである。
(2) 同3(二)(2)の主張は争う。
(3) 同3(二)(3)の主張は争う。
(三)(1) 同3(三)(1)の冒頭の主張は争い、アの事実は認め、イの事実は否認し、ウ、エの主張は争う。
(2) 同3(三)(2)の冒頭の主張は争い、アの事実は認め、イの事実は否認し、ウ、エの主張は争う。
(3) 同3(三)(3)の事実は否認する。
(4) 同3(三)(4)の主張は争う。
(四)(1) 同3(四)(1)のうち、鉱山保安監督部長及び鉱務監督官に原告ら主張の権限があることは認めるが、その余の主張は争う。
(2) 同3(四)(2)の主張は争う。
(3) 同3(四)(3)アないしウの主張は争う。
(4) 同3(四)(4)の事実は否認する。
(5) 同3(四)(5)の主張は争う。
(五)(1) 同3(五)(1)の主張は争う。
(2) 同2(五)(2)の主張は争う。
(3) 同3(五)(3)の事実は否認する。
(4) 同3(五)(4)の主張は争う。
4 同5の事実はすべて知らない。
(被告国の主張)
1 本件崩壊の原因
(一) 素因としての地質構造
(1) 松山の地質・岩質
松山の地質は、新第三紀鮮新世に属し、白色ないし淡灰青色を呈する凝灰質砂岩、泥岩、シルト岩が互層状に累積し、亜炭層を挟有している。この地質の生成年代は新しく、右凝灰質砂岩は、透水性に富み、水を含みやすく、水を含めばモンモリロナイトを含んだ粘土と化する性質を有する。一方、泥岩、シルト岩、亜炭類は不透水性を有し、滞水層やすべり面が形成されやすい状況になっている。また、ボーリング調査の結果によると、少なくとも、松山北斜面の地表近く約数メートルは、旧地すべり地塊又は強風化の基岩並びに崩落土が認められ、その下は基盤であって、上部約数メートルはある程度の変質を受けているものの稼行炭層までの間は、整然とした地層の配列が見られ、また岩石の硬さが保たれている。
(2) 地下水の供給・滞留構造
松山北斜面は、右(1)のような地層構造になっており、その走向傾斜はおおむね北南・一〇〜二〇度東の単斜構造となっているため、地下の地層がその西側に行くほど地表に近づき、ついには地表に接している。このため降雨水等の地表水は地下浸透し透水性の高い砂岩層に沿って東方へ流下する地質構造となっている。しかも、本件崩壊地の西側は、ボーリング調査の結果によれば、十数メートルの深さまで風化が進行しており、地下水が浸透しやすくなっている。また、本件崩壊地及びその周辺には、滑落崖頂部東側標高一六〇メートル付近の地点を通る走向傾斜が北五〇度西・七〇度南西及び北五〇度東・七〇度西のものや本件崩壊地の標高一三〇メートル付近をほぼ東西に横切るものなど多数の断層が存在している。
したがって、松山北斜面においては、西側及び南側の地表に接した透水層や断層等を通して降水、融雪水等が地下に供給され、その地下水が地層の傾斜に従って東方に流れ、本件崩壊地東側にある標高一六〇メートル付近の右地点を通る二つの断層及び標高一三〇メートル付近で本件崩壊地をほぼ東西に横切る断層にせき止められる構造になっていた。
(二) 素因としての地形
(1) 山麓の押し出し地形
本件崩壊前の松山北斜面から明瞭な地すべり地形を読み取ることは困難であるが、本件崩壊地の山麓はその東西両側と異なって緩い勾配の斜面となって山麓から約一〇〇メートルにわたってエプロン状に平地に押し出している。また、松山北斜面の山麓平地には、少なくとも最大深さ11.4メートルにも達する旧崩積土が山麓から約四〇メートル北方まで広く堆積していることが認められ、このような大量の崩積土が、河川の側方浸食によって急傾斜地となった松山北斜面の斜面崩壊によって形成されることはあり得ない。
(2) 谷筋の変状
本件崩壊前の松山北斜面には多くの谷が存在しているところ、その谷が斜面途中で突然なくなって谷を流れる水が地下に潜る地形を呈している。小さな谷が突然なくなっている地形は、谷を流れてきた水が過去の地すべりによって堆積した崩積土の下へ潜っていることを示すものである。
(3) 坑口付近などの崩積土
本件崩壊地の東側の標高一二一メートル付近の旧火薬庫付近には、厚さ約1.3〜1.5メートルの崩積土が、西側の巌神社裏には少なくとも厚さ六〇〜八〇センチメートルの旧崩積土がそれぞれ存在したほか、坑口付近には、古い時代の地すべりのため露頭を把握することができず、着炭するまで苦労して坑道を掘進しなければならないほど厚く崩積土に覆われていた。
(4) その他の地すべりの徴候
坑口から二〇メートルくらいまでの亜炭層に割れ目が多く、その割れ目には粘土が詰まっていた。原告側調査の亜炭露頭はブロック化し、その間に著しく粘土化したシルト岩が入り込み、また亜炭の走向傾斜は乱れている。非稼行坑道の亜炭層の割れ目は北六五度東を中心とする一定方向の走向傾斜を示している。ボーリング調査の際、ひずみ計を設置してすべり面調査をしたところ、VB―六で地表から九メートル、VB―七で同一五メートルの所にひずみが存在している。
(5) その成因
松山北斜面の山麓平地に分布する崩積土から推定される被告国主張の旧地すべりと右の諸事情との関係をどう理解するかは困難な問題であるが、山形大学の米地文夫は、山麓平地の崩積土は旧地すべり(表層地すべり)によるものであると、同皆川信弥は、稼行炭層の地表から約二〇メートル付近までの割れ目をクリープ現象によるものと、それぞれ説明していることに加え、非稼行坑道において観察される亜炭層に存在する割れ目が北六五度東・七〇度北西を中心とする一定方向の走向傾斜を示していることは、おおむね北二五〜三〇度西の方向に動いて生じたものと考えるほかなく、稼行亜炭層に存在する割れ目や山麓平地の崩積土の存在状況等を併せ考えると、松山北斜面においては、古い過去に地すべりが発生していたことに疑いはないところである。
(三) 本件崩壊の誘因(融雪水の供給)
赤松地区は山形県有数の豪雪地帯であり、特に昭和四九年冬は記録的な豪雪があって、三月末においても二メートル前後の積雪があった。しかも四月一四日ころから気温が急上昇した。赤松地区に近い清水の積雪量の推移をみると、一四日以降は一日あたり8.3センチメートルの積雪量の低下であり、四月六日以降は一日あたり9.7センチメートルの積雪量の低下があった。それは降水量にしてほぼ四〇〜四五ミリメートルに相当する。松山では積雪量が清水より多いから、右の量を上回る大量の融雪水が供給されたことが推定される。
このような大量の融雪水が前記のとおり崩壊地及び西側斜面から旧崩積土若しくは風化層を通して地下浸透し、透水層を地下水となって本件崩壊のすべり面に流下して断層等でせき止められて滞留し、すべり面のせん断抵抗力を弱めるとともに間隙水圧を高めたのである。このことは、本件崩壊後標高一三〇メートル前後の地点に湧水があったことなどによって裏づけられる。
(四) 結論
以上のように、本件崩壊は、松山における地質と地下水の滞留構造、崩積土等から認められる旧地すべり地形等の素因に大量の融雪水の供給という誘因が加わって、旧地すべり地域又は基盤内の凝灰質砂岩、泥岩等の不透水層上位の粘土化した地層内にすべり面を形成していた部分の上位がせん断破壊を起こし本件崩壊に至ったものと認められる。
2 松山における亜炭採掘と本件崩壊の関係
(一) 採掘方法
松山炭鉱で行われていた前進式昇向階段払法は、松山炭鉱に隣接する赤松炭鉱、新赤松炭鉱、烏川炭鉱始めこの地域の多数の亜炭鉱山で採用されていた。特に、炭層が薄層(1.25メートル以内)で緩傾斜の炭層に採用され、採炭時に出る掘進file_4.jpg、透かしfile_5.jpgを搬出することなく、これをほぼ全量採炭跡に充填する方法であって、落盤防止、沈下防止にも役立っている。しかも、file_6.jpgを坑外に搬出しないため、採鉱学上、保安面、経済面にも最適の採炭法である。ちなみに、大蔵村一帯の亜炭採掘は、明治以来長期にわたる実績を有しており、その間亜炭採掘に起因する地すべりの発生は知られておらず、多数の亜炭鉱山が各地において支障なく稼行されてきていた。
本地域は新第三紀鮮新世に属し、八向層、清水層中に炭丈0.5〜1.5メートルの亜炭層合計三〜一〇層(稼行炭層三〜八枚)を挟有している。これら稼行炭層のうち種々の採掘条件によって実際に採掘されるのは、一〜三層で三層採掘の事例は少ないが、二層採掘を行った炭鉱は数多くあり、松山炭鉱は特別の事例ではない。
このように稼行炭層の上に数層の亜炭薄層を有し、この薄層を採掘し、採掘跡を充填している場合、上位地盤の攪乱や地表沈下現象が生ずる可能性は極めて少なく、また地下浅所の薄層の採炭においても空洞天盤の崩落が繰り返して生ずる可能性も少なく、松山炭鉱においてもこのような現象は認知されていない。
(二) 松山炭鉱の落盤等
新潟大学の松野操平らの報告による上層二坑、上層三坑の落盤は、同報告によれば、いずれも露頭より二〇メートル程度の位置で、この付近は地表に近いため岩盤が風化を受けている所で軟弱な岩盤や崩積土の中に開削したため、落盤又は崩落したものであって、浅所陥没現象とみるべきである。
災害後、取開調査した非稼行坑道及び上層二坑道の調査結果においても、小さな高落ち(落盤)現象は認められるものの、原告らが主張するような大きな天盤の沈下現象は認められていない。上層三坑道について、原告らは、坑道全面がすべて落盤していた旨主張するが、人為的に坑道全体が奥部からfile_7.jpg充填されたものである。一部崩落した部分は認められるが、地表に近い部分であり、本件崩壊又はその復旧工事時のブルドーザー等の振動等によるものと思われる。現に地表には何らの異常も認められない。
(三) 調査ボーリングがとらえた空洞
松山炭鉱では、一部柱房式採炭法が採用されたことがあるが、主として前進式昇向階段払法が採用され、採炭跡は採炭時の透かしfile_8.jpgで充填され、坑内に空洞として残る部分は、片盤坑道、見通し坑道及び採炭切羽の最終部分であり、この占める割合は坑道の間隔、採炭切羽の長さにより多少の差があるとしても、おおむね二〇〜三〇パーセントである。したがって、採炭跡は充填file_9.jpgと含水膨張による盤ぶくれにより圧縮安定し、坑道等においては多少の落盤があるにしても、空洞として残されている部分が多く、落盤が生じた箇所であっても、落盤した岩石の増積、免圧圏の発生等により安定している。
本件崩壊後の調査ボーリングがとらえた空洞は、片盤坑道、見通し坑道、切羽最終部の未充填箇所とみるべきである。原告らは、この空洞の存在は落盤、崩壊が進行していることを裏づけるものであると主張するが、地下採掘による地表沈下は深度一〇〇メートルで六〜九ヶ月、深度二〇〇メートルで約一年、四〇〇メートルで一四〜一五ヶ月で安定するという学説をも否定するものである。
むしろ、ボーリング調査により松山炭鉱の採掘跡に空洞の存在が認められたことは、採掘跡が整然と保持されていることを示すものである。
(四) 亜炭採掘跡の上位地盤の乱れ
一般的に均一な地盤の中にトンネル等を掘った場合、その採掘面の天盤部分から上位に向かって順番に沈下させる力が働くが、そういう場合には採掘面に近い方が変位量が多く、亀裂(クラック)がより多く入り、上位にいくに従って変位量は少なくなるといわれている。原告らは、この理を無視し、しかも、かなりの厚さを有する稼行炭層上位の不透水層がたわんだなどとし、したがって、これを通して地表に近い方にまで、より多くのヘアクラックが発生した旨主張し、そのような異常な現象が生じたのは、地表に近いほど風化していたからであるとした上、本件崩壊のすべり面に右クラックを通して大量の融雪水が供給されて滞留したと主張する。
しかし、本件崩壊地で行ったボーリング調査によれば、稼行亜炭層直上の不透水層のほかにその上位にも泥岩、シルト岩や亜炭層で形成された不透水層が存在し、それら不透水層の間の透水層には被圧性の高い地下水がある。原告らは、前記非稼行坑道において観察される亜炭層のクラックも亜炭採掘による地盤のたわみによるものとしているが、そうだとすると、稼行亜炭層直上の不透水層より上位の泥岩、シルト岩、亜炭層等不透水層となり得る層にはかなり広範囲に無数のクラックが存在したことになり、右地下水流の形成とその被圧性の高い地下水の存在に明らかに矛盾する。
したがって、亜炭採掘による上位地盤のたわみにより稼行亜炭層直上の不透水層を除くその上位の泥岩、亜炭層まで亀裂を発生させたということは極めて疑問である。
(五) 亜炭採掘とすべり面への融雪水の供給
地すべり防止の施設として、地下水の排水工事が主要な施設となっているが(地すべり等防止法一二条)、原告らのいうように亜炭坑内の落盤が上層地盤への亀裂や断層を生じさせたのなら、亜炭坑の坑道が地下水排水、滞水層・すべり面形成阻止という地すべり防止の重要な役割を果たすことが期待できることになる。また、原告らのいうように地表からすべり面までヘアクラックにより上位地盤から満遍なく融雪水が浸透したのであれば、地下の特定箇所、すなわち、すべり面付近だけでなく、上位地盤全体がほぼ均等に多量の水を含み、かつ、その地質から過度に軟弱化していたことを否定することができないところである。そうすると、地表の立木を載せたまま滑落し滑走した土塊はそれほど乱されず多量の水を含んでいなかったという本件崩壊の運動形態を説明できないというほかない。 (六) 非稼行坑道の亀裂
非稼行坑道内の亀裂は、採炭以前に生じていた地すべり地塊内の節理(亀裂)であり、採炭によって生じたものではない。その根拠は、次のとおりである。
すなわち、あらゆる岩石には、ずれのない節理(亀裂)が多かれ少なかれ生じているのが一般的であり、粘土が入っている亀裂は古いものであるといえるが、逆に古い亀裂すべてに粘土がはいっているわけではない。非稼行坑道内の亀裂の産状をもって、その生成時期を、本件崩壊発生の昭和四九年に近い採炭時以降であると特定することは、不可能である。
また、非稼行坑道内の亀裂の走向傾斜は北六五度東・七〇度北西を中心に極めて良い一致を示しているが、稼行開始時に既に地表付近の坑内に多く発生していた坑夫が「目」と呼ぶ亜炭層の割れ目の走向傾斜も、おおむね北七〇度東であったと推察され、これは偶然の一致ではなく、同一の性質を持つ割れ目で、いずれもその成因は正に自然の営力によるものである。
さらに、地表に近い部分のみに、亀裂が生じていることからみると、その自然の営力の中でも、広範な地質構造運動によって生じた本来の地質の要因ではなく、昭和四九年以前の地すべり活動によって生じたものと考えるのが自然である。
3 国賠法二条の責任
本件崩壊地の東側側端部にわずかに保安林に指定されている民有林があるが、保安林は行政主体が直接の支配権に基づき森林を育成管理するものではないから、国賠法二条に規定する「公の営造物」に当たらない。
仮に民有保安林が「公の営造物」に該当するとしても、保安林の管理の主眼とするところは、森林所有者等がその権限に基づき行う森林施業等の行為に対し、保安林において定められた制限の遵守及び義務の履行を確保することにあるから、保安林の管理には、森林の機能の限界を超えた災害を直接防止することまで要請されていない。
したがって、原告らが主張する国の保安施設事業又は地すべり防止工事の施行義務懈怠が、本件崩壊地を公の営造物ととらえ、その設置管理にあたっての作為義務を怠ったことをいうのであれば、それは国賠法二条の要件を充たさないものであって失当である。
4 国賠法一条の責任
(一) 危険管理責任
本件において原告らがその不行使の違法を問題としている各権限は、いずれも行政以外の自然現象や第三者の行為等の社会に対する加害行為を損害の直接の原因とする場合であり、危険管理型といわれる(鉱業権設定の許可権限は当然に不許可権限を含み、本件においては松山炭鉱の鉱業権出願に対し不許可処分をしなかったことの違法が問題とされているのであるから、鉱業権設定不許可権限の不行使の場合として論ずるのが相当である。施業案の認可権限も同様である。)。この類型においては、権限の不行使という不作為の違法性が問題とされる。行政の権限の不行使を違法とするためには、その権限行使が義務づけられている場合でなければならないが、一般に、一定の要件のもとに行政権限の発動を義務づける法規は存しないので、行政権限を発動するか否かは行政の裁量にゆだねられている。ただ、行政が有する権限の発動・不発動の裁量が一定の状況によってなくなり、権限の発動が義務づけられ、行政権限の不行使が違法と評価される場合があり得るとされ、行政権限の不行使が違法とされる要件については、従来の判例によると、右権限不行使が違法とされるのは、おおむね、①国民の生命・身体に対する具体的危険の切迫とその予見可能性、②行政庁による権限行使の可能性とそれによる結果回避可能性、③行政庁が権限を行使しなければ結果発生を回避できないこと(補充性)、④国民の権限行使への要請と期待可能性、の要件が充たされる場合であるといわれている。仮に行政権限を発動するか否かの裁量権が収縮し、その権限発動が義務づけられる場合があり、その要件が右①ないし④であるとしても、どのような事実があればそれらの要件が充たされたといえるかの判断は、当該権限の不行使がその根拠規定に違反しているかどうかの判断と一致するから、その根拠規定の趣旨、目的、要件等を考慮し、具体的権限発動の要件は何かを各法規に沿って検討し、消極的事情すなわち規制権限行使の支障となる事情の存否、同種事例について従前行政庁がとった措置との均衡等も併せて慎重になされなければならない。
(二) 鉱業及び鉱山保安行政に関する諸権限の不行使について
(1) 松山炭鉱における鉱業権設定許可からその取消までの経過
溝口トキ外一名の鉱業出願は、昭和二八年二月三日に仙台通産局長によって受理された。同局長は、鉱業法二四条に基づき同二九年二月四日山形県知事及び秋田営林局長に対し、公益上の支障の有無を確認するため協議を行い、同年三月二日秋田営林局長から、同月九日山形県知事からいずれも特に支障がない旨の回答を得、これを踏まえて願書、区域図、鉱床説明図の記載内容を検討した上、鉱業法列挙の不許可事由に該当しないものとして昭和二九年七月一〇日鉱業権設定を許可し、これを受けて同年八月六日右鉱業権が登録された。
これに続いて昭和三一年四月六日施業案の認可申請が出され、仙台通産局長は、鉱業法六三条三項に基づき仙台鉱山保安監督部長と協議し、かつ施業案の内容を検討した上、昭和三一年七月四日これを認可した。その後も採炭の進行とともに改めて施業案の認可申請が出され、その都度仙台鉱山保安監督部長と協議し、かつ、その内容を検討した上、昭和三四年一一月五日、同三六年一一月六日、同四二年三月二七日及び同四三年一一月一九日にそれぞれ認可した。
その間松山炭鉱に対する鉱務監督官の立入検査は年一〜二回行われており、記録上、明らかなだけでも昭和四一年七月から同四八年三月までの間に合計八回行われている。
昭和二九年に鉱業権設定許可から、同四九年の鉱業権の取消までの間、鉱業権の取消、施業案の認可許否、施業案の変更命令、鉱業停止命令、特別掘採計画の認可及びその変更命令、保安規程の認可・変更命令、保安命令、鉱害防止設備命令の権限が行使されたことはない。
そして、昭和四三年一二月末をもって採掘を中止し、同四八年一二月一四日鉱業法五五条の規定に基づく鉱業権の取消による消滅の登録がされた。
(2) 鉱業自由主義と鉱業権者の責任
我が国の鉱業法制は、鉱物の所有権を土地所有権から独立させ、国も私人も鉱業権によるのでなければ鉱物を採掘し得ないとする鉱業自由主義を大原則として採用している。
鉱業自由主義の結果、鉱業は鉱業権者がその最終責任者として鉱山労働者を指揮してこれを実施するものであるから、その反面として、鉱山保安も原則として鉱業権者の責任とされ、鉱山保安法は、鉱山保安上最も重要な事項を列挙して、「そのため必要な措置」を講ずることを鉱業権者の義務とし(同法四条)、これに反した者は処罰することとしている。
ところで、鉱業はその作業の性質上、鉱山労働者に対する危害や鉱害の発生の可能性は否定できず、その防止の重要性からこれをあげて鉱業権者にゆだねることは適当でないことなどから、通商産業大臣、通産局長、鉱山保安監督部長らに原告らがその不行使の違法を問題としている諸権限を与えるなどして鉱業に対する国の関与をある程度認めている。しかし、これらの権限の行使は鉱業権者による鉱業の実施の制約となるもので、鉱業自由主義の例外であり、適正な鉱山保安の確保のために必要最小限と考えられた範囲のものである。これら諸権限が鉱業自由主義の尊重を前提としていることは、いずれも鉱業権者に対し一定の行為を禁止し又はこれを命ずることを内容ないしその効果としており、国の機関が直接鉱山保安を確保するための現実的措置をとることを内容とした権限が全く存在しないことからも明らかである。
また、昭和一四年の旧鉱業法改正において鉱害賠償の規定が設けられ、現行鉱業法に引き継がれてきているが、これは鉱業自由主義に基づき、鉱業の実施者である鉱業権者の行為に対して無過失賠償責任を認めることとされたものであり、国が鉱害に対する賠償責任を負うことを規定するものではない。
(3) 具体的危険の切迫とその予見可能性
ア 予見可能性の存否の判断の基準時及び判断の基礎となる事実についての資料収集手段
仙台通産局長らの被告国の機関が本件崩壊発生の危険を予見できたかどうかの判断の基礎となる事実は、これらの機関がその不行使の違法を追求される各権限を行使し得た時に認識可能であったものに限られる。
そして、予見可能性の存否の判断の基礎となる事実を知るための手段及びこれにより収集可能な資料は、被告国の機関の各権限ごとに異なり、鉱業法あるいは鉱山保安法等に基づくものとして、次の各権限及びこれによる収集資料が考えられる。
・仙台通産局長の鉱業権設定の許可(鉱業法二一条一項、三五条)
――願書・区域図(同法二一条二項)、鉱床説明図(同法二二条)、県知事及び営林局長との協議結果(同法二四条)、土地所有者の意見書(同法二五条)、設備設計書(同法二六条)
・仙台通産局長の施業案の認可(同法六三条二項)
――施業案(同法六三条二項)、鉱山保安監督部長との協議結果(同法六三条三項)、第二回目以降の施業案の認可(本件では、昭和三四年、同三六年、同四二年及び同四三年の施業案認可)の際にはさらに坑内実測図(同法施行規則五八条)、通産局長と鉱山保安監督部長は互いに連絡し合うこととされている(通達・昭和二七年一〇月一六日鉱二四四号)ので、鉱業権者の保安報告(鉱山保安法二八条、石炭鉱山保安規則六八条・三七六条の六)、保安図(同法二九条)、鉱務監督官の立入検査・質問の結果(同法三五条)、業務状況・帳簿書類等報告の徴候・立入検査の結果(鉱業法一九〇条)、鉱山労働者の申告(鉱山保安法三八条)
・仙台鉱山保安監督部長の施業案変更命令権(鉱山保安法二二条二項)、保安命令権(同法二五条一項)、鉱害防止設備命令権(同法二六条)
――右に掲げたものすべて等
・鉱務監督官の保安命令権(同法三六条一項)
――右に掲げたものすべて等
このほか、右各権限の行使可能時に被告国の機関において制度上、容易に入手可能であった鉱害に関する一般的な諸研究成果や統計資料等が考えられる。
ところで、現行鉱業法制は、鉱業自由主義を大原則とし鉱害防止責任は鉱業権者が負うものとしており、鉱害防止にある程度国の機関の関与を認めるものの、それは、鉱業権者による鉱害防止活動を援助・助長するとともに、これをチェックするという範囲にとどまるものであるから、国の機関が直接鉱業権者に命じ又は負担を強いることを内容とする、通産局長らによる報告の徴収・立入検査、鉱山保安監督部長らの保安報告命令、鉱務監督官の立入検査・質問等は、これらの規定をみても明らかなとおり、本来、必要に応じて行う例外的手段とされ(したがって、無論これらの機関に対し、常時これらの権限の行使を義務づけたものではない。)、原則的資料収集手段の中には、鉱業権者に対し、国の機関が直接一定の行為を命じ又は負担を強いるような内容のものは存しない。
したがって、原則的には、鉱業権者の報告、鉱山労働者の申告、地元住民又は市町村からの通報等の任意的方法による資料収集手段により鉱山保安上の問題点を認識したときに、強制にわたる右例外的資料収集手段を行使すべきが筋合いと解される。
イ 松野説及び中川説について
亜炭採掘に起因して地すべり又は山崩れが発生する旨指摘した新潟大学の松野操平の見解(以下「松野説」という。)は、昭和五一年に初めて提唱されたものであり、同様の指摘をした京都大学の中川鮮の見解(以下「中川説」という。)も、本訴提起以前には提唱されていない。
松野説は、坑内空洞の落盤等の繰り返しと稼行亜炭層の上位地盤の沈下により、クラックと地表にまで達する亀裂が生じたとしているが、落盤等の繰り返しにより上位地盤が攪乱されてクラックが生じたとすれば、そのクラックは坑内空洞に近いほどその数が多くかつ大きくなるし、上位地盤の沈下によって地表まで達する亀裂が生じたのであれば、これまた坑内空洞まで達していると考えるのが採鉱学上の常識であるから、融雪水が地表から右クラック及び地表にまで達する亀裂の経路をたどって浸透したのであれば、それは、結局、坑内の空洞に排水されてすべり面に滞水することはないと考えるのが土砂災害の予測及び予防上の常識である。そうすると、仮に、当時松野説を知っていたとしても、この常識に反する同説に従って本件崩壊を予見し、被告国の機関が鉱業権者に種々の負担を強いる前記各権限を行使することを要求することは不可能であった。
また、中川説は、稼行亜炭層の上位地盤が沈下したことによって、稼行亜炭層直上の不透明層が単にたわんだにすぎないのに、その上位は風化層・クリープ層であったために無数のヘアクラックが生じたというのであるが、地中を掘採すると、採掘面の天盤部分から上位に順番に沈下させる力が働き、採掘面に近い方が大きくクラックが入るのが一般であって、このような沈下理論を説明した文献を見ても、上位にクラックが入り、下位にそれが入らない場合を説明した例は見当たらない。その意味で、仮に、当時原因論に関する中川説を知っていたとしても、これまた従来の沈下理論の常識に反するものである上、中川説は、どのような、ないしどの程度の前兆があったときに土砂災害が具体的に予見できるかを明らかにしていないので、それは土砂災害予測のための理論とはいえない。このような中川説によって本件崩壊を予見しその権限を行使すべきことを被告国の機関に求めることのできないことは、松野説と同様である。
ウ 石炭採掘に起因して土砂災害が発生するとの見解について
石炭採掘に起因する地すべりの発生を認定した例を報告しているという昭和四〇年度ないし四二年度鉱害認定科学調査報告等のうち、一例は浅所陥没の事例にすぎず、他の二例(佐賀県多久地域及び長崎県世知原地域の上野原地区)は、ともに地すべりそのものの発生が明らかになっているものではなく、地表に亀裂や段差が生じているとするものであり、また、いずれも過去の地すべりによって形成された地形上や地すべりの発生しやすい地質にあるなどの素因をもともと有している地域であり、石炭採掘がそれら亀裂等の発生の誘因となったと判断されたものである。この二地域の調査結果のみをもって直ちに地すべりと石炭採掘との因果関係の確立を主張することは余りにも短絡的である。
ところで、全国の稼行石炭鉱山は多いときは一〇四七鉱山に達し、いずれも長い稼行実績を有しているところ、そのような膨大な数の永い歴史をもつ石炭鉱山において、石炭採掘に起因する土砂災害として原告らが挙げた鉱害認定科学調査報告が指摘するのはわずか二例にすぎないのである。
したがって、右のわずかな事例(しかも、いずれも石炭採掘にかかるものである。)をもって、亜炭採掘により地すべりないし山崩れが発生するとの因果関係が確立しており、仙台通産局長らの被告国の機関において、これを認識していたということはできない。
次に、石炭採掘に起因して地すべり等の土砂災害が発生するという小出博著・「日本の国土(下)」(以下「小出説」という。)及び「アーバンクボタ」・大八木則夫執筆部分(以下「大八木説」という。)は、その発行年月日のとおり、それぞれ昭和四八年、同五八年に初めて明らかにされたものであり、小出説は石炭採掘が地すべり発生にどのような係わりを有するかについて明確に述べていない。両名の研究者はこれらの文献を発表する以前は、いずれも石炭採掘は地すべりの原因に関係なしとの見解をとっていた。
さらに、石炭採掘で一般的にとられている長壁式採炭法は、亜炭鉱山に比し「稼行炭層の厚さ」、「採炭切羽の規模」、「掘採設備の規模」等いずれもスケールが全く異なり、その地下採掘の影響についても亜炭鉱山の小規模な前進式昇向階段払法と同一視することはできない。
しかも、従来、亜炭採掘に起因するという土砂災害が報告された事例はない。
エ 松山の地形・地質
松山の地形・地質を当時知り得たとしても、このような地形・地質は国内において格別珍しいものではなく、また、松山北斜面はいわゆる典型的地すべり地形を呈してはいなかった。松山の地表には、比較的良好な成育状態の森林が保たれており、山崩れの誘因として挙げられることのある風化が進んでいたことを窺わせる状況もなかった。しかも、亜炭採掘が本件のような崩壊を引き起こすとの一般的な認識のなかった当時において、右松山の地質・地形の特徴は、それだけでは、何ら予見可能性の基礎となり得る事実ではなかった。
オ 松山における過去の崩壊の歴史等について
松山において過去に発生したという原告ら主張の三回の山崩れについては、昭和二〇年以前のものは、昭和二〇年七月の仙台空襲により関係記録が焼失して存在しなかった上、これら山崩れはいずれも東斜面が東方にかつ比較的ゆっくり移動したもので、北斜面が北方に向かって突発的に移動することを予見させ得るようなものではないばかりか、鉱山関係者に危害をもたらさず、また災害により作業の一部を休止したものでもないことから(石炭鉱山保安規則六八条)、仙台鉱山保安監督部には報告されなかったとみられる(松山で昭和二三年に発生したもの、烏川・大浦山・境の峰・め栗山のものはいずれも報告されていない。)。
そうすると、原告らの主張する松山における過去の崩壊や山崩れの歴史は、いずれにせよ、本件鉱業権設定許可等の当時、仙台通産局長ら被告国の機関の知り得ないものであったから、本件災害発生の予見可能性の基礎となる事実たり得なかったものというほかない。
仮に、昭和二三年の山崩れを知り得たとしても、前述の亜炭採掘との因果関係を知らなかったのであるから、右事実の存在をもって、本件災害発生の予見可能性ありとすることはできない。
カ 松山炭鉱における落盤及び松山山頂付近の亀裂について
新潟地震の際、斜坑の坑道の上部の地表が陥没したことは認められるが、その場所は、本件崩壊地から北東に約四五〇メートル離れた所であり、陥没というのは、湧水が多く右地震による地盤変動を契機として発生した浅所陥没現象であって、本件崩壊とは全く無関係な(その原因となり得ない)事実である。また、仮に、昭和三一年ないし三三年に落盤があったとしても、鉱務監督官ら被告国の機関には、鉱山保安法二八条、三八条、石炭鉱山保安規則六八条による災害・事故報告や申告がなく、鉱務監督官の立入検査・質問の際においても、同様の報告や説明もなく、坑内の岩盤、天盤等に特異な事象も認められず、これを知り得なかったものである。
原告らが問題としている鉱務監督官の立入検査・質問は「保安上必要があるとき」にできるものとされており(鉱山保安法三五条一項)、それは鉱務監督官の裁量にゆだねられているのであって、鉱務監督官に対し、鉱山で生起する諸条件の変化を常時監視し発見する義務を負わせたものでないことは、その規定自体からみても明白である。したがって、そもそも右規定から、一般的に鉱務監督官に当該鉱山の周辺の地表の状況を不断に研究・調査すべき義務が発生する余地はない。
そして、本件災害発生以前において、亜炭採掘が本件のような崩壊を引き起こすとの理論は、鉱務監督官においても認識し得なかったものである上、松山炭鉱において、鉱務監督官の立入検査・質問の結果によれば、施業案中の保安に関して瑕疵がなく、坑内全般について特異な現象は認められなかったのであり、しかも、鉱区の地表に公共施設や建物(鉱業法六四条参照)のない山地にあって、ほとんどの人家まで約二〇〇メートルも離れている右炭鉱において、通常、地表の陥没等の変異が直ちに本件のような災害に結びつくとは考え難いのであるから、鉱務監督官に一般的に地表を研究・調査すべき義務があり、雑木の繁茂する広い松山炭鉱の地表部をくまなく踏査すべきであったとは、到底いい得ないところである。
さらに、昭和四四年三月六日の鉱務監督官の指示についても、当時、実際に上層四坑採炭切羽上の地表が陥没していたわけではない上、上層四坑の坑道、切羽は昭和三五年ころから使用されていなかったにもかかわらず、ほぼ整然とした状態を保っていたことや、前述のように鉱区の地表に公共施設等がなかった状況からみて、右の指示の前提となった事実から、直ちに鉱務監督官において松山の地表を調査すべき義務があったとはいい得ない。
また、不用坑道、坑内採掘跡には、危険防止の観点から、立入りを禁止するため警標を掲げ、さく囲や通行遮断の設備を設けることが義務づけられており(石炭鉱山保安規則二七五条、二七七条)、鉱務監督官においても、通常、右不用坑道等を検査すべき義務はない。また閉山後においては、不用坑道の閉塞が義務づけられており(同規則二七五条)特段の事情のない限り、閉塞された坑口を取り開け、坑内の立入検査をしなければならないまでの義務はないものである。
鉱害の防止責任は、第一次的に鉱業権者にあることは、前述のとおりで、仮に松山において地表の調査を行うとすれば、鉱業権者あるいは鉱山労働者らから異常がある旨の報告等を受けて初めて鉱務監督官が詳細に調査し、鉱害防止のための助言・指示を行うというのが法の建前であり、前述の理由からみて、少なくとも松山炭鉱においてはこれで十分足りるものというべきである。
仮に、原告ら主張のように、鉱山の地表の調査を一般的に行うとすれば、右調査は全鉱山で行うことを要することになるところ、昭和三一年から松山炭鉱に関する鉱業権が取り消された昭和四八年までの仙台鉱山保安監督部管内の全鉱山数は、八一四から一九七の間を推移しており、これら鉱山の合計面積は膨大なものであって(一鉱山で二〇〇万平方メートルを超えるものもある。)、これに対し、その間の仙台鉱山保安監督部所属の鉱務監督官は、僅か二二ないし三九名であって、現実的にもそのような調査を行うことが到底不可能であることは、明白である。
したがって、鉱務監督官の前記立入検査・質問は、法の趣旨にかなった適切なものということができ、鉱務監督官がそれによって了知できなかった事実は、認識不可能であった事実というほかない。
(4) 結果回避の可能性等
原告らの主張は、鉱業権設定許可にかかる権限についてはともかく、その余の権限については、仙台通産局長らの被告国の機関が、いつ、いかなる段階で、あるいはこれに加え、具体的にいかなる事項を内容とした各命令等の権限を行使すれば、本件崩壊の防止が現実に可能であったかについて、何ら触れるところがなく、主張自体失当といわざるを得ない。
また、原告らが主張の根拠としている中川説や松野説によれば、ヘアクラック、亀裂の発生は不可避というのであるから、結局、その主張によれば、施業案の認可やその変更の認可にかかる権限によっては、これを防ぐことができないことに帰着するといわざるを得ない。
さらに、原告らは、仙台鉱山保安監督部長は、指定地方行政機関の長として、災害対策基本法上の災害防止義務を負っており、同法三条四号により都道府県又は市町村に対し、勧告、指導、助言等の適切な措置をとらなければならない義務がある旨主張し、その前提として、同部長は本件崩壊を予見することが可能であった旨主張するが、前述のとおり、当時、同部長において、右予見が可能であったということはできないから、右主張は失当である。
(三) 保安施設地区の指定及び保安施設事業の実施について
都道府県が保安施設事業等を行う場合には、都道府県知事から、保安施設地区指定の申請を農林大臣にすべきものとされている(森林法四一条二項)が、本件崩壊地については、被告県の知事からの指定の申請がなかった。したがって、保安施設地区に指定されなかったのであって、これをもって、被告国の義務懈怠があったとはいえない。
また、国も、事業の規模が著しく大であるときなどにおいて、保安施設事業を行うことができるが、本件崩壊地はこれに当たらず、しかも、良好な森林の状態を保っており、現に発生した崩壊地等も存在せず、安定した地形を保っていたのであるから、被告国が直接に保安施設を行う必要があると認められる要件がなかった。
さらに、森林法によれば、そもそも保安施設事業は、あくまで森林の現に有する災害防備上の機能を介して国土の保全を図るという「森林の造成事業又は森林の造成若しくは維持に必要な事業」であって、それを超えて、本件のような崩壊を防止する(そして、崩壊による付近住民の生命・身体・財産等の被害を防止する)ことを直接その目的とするものではなく、無論、地すべり等防止法による地すべりの防止を目的とするものでもない。
以上のとおり、森林法による保安施設地区の指定及び保安施設事業の施行について、被告国の機関の権限の不行使が著しく合理性を欠くものとはいえないのであり、作為義務を怠ったことが、違法であるとの原告らの主張は国賠法一条の要件を欠き失当である。
(四) 地すべり防止区域の指定及び地すべり防止工事の施行について
地すべり防止区域に指定されると、都道府県の負担において知事が地すべり防止工事をすべきものとされているから、地すべり防止工事に伴う土地所有者等の土地利用権に対する制約や都道府県の予算上の制約等も考慮し、現に地すべりしている区域は別として、全国多数の地すべり危険区域のうちより危険性の高い地区(地すべり等防止法三条の「地すべりするおそれのきわめて大きい区域」)をできるだけ狭い区域に区切って(同法三条二項参照)指定することが要請される。そして、実際にも、広大な国土の中から地すべり危険区域を選別するための調査をするのに、すべていちいち現地調査等の詳細な調査を行うのは、非現実的であり、法の要請するところでもない。農林大臣においてなし得るのは、個々の斜面等について個別的に地すべり発生の高度の具体的危険が予見されるとき(前述の地すべりするおそれの極めて大きいと予見されるとき)にその斜面等を地すべり防止区域に指定することである。
ところで、山形県内については、本件崩壊前の昭和四七年に林野庁において、「山地に起因する災害危険箇所の総点検について」(昭和四七年七月一四日付け四七林野治第一七五二号)による「山地に起因する災害危険箇所の総点検実施要領」に基づき、山腹崩壊、山津波等が現に発生し、又は発生する危険のある森林又は原野について、山腹崩壊危険地区、崩壊流出危険地区及び地すべり発生危険地区に分けて、航空写真、地形図等による調査が行われたが、松山北斜面には、滑落崖及び緩斜面等のいわゆる典型的な地すべり地形が認められず、過去に北斜面で地すべりが発生したとの記録もなかったことから、昭和四七年の調査時における調査対象選別基準では調査対象となり得ず、予想危険地区として決定されなかった。したがって、右要領に基づく現地での踏査確認もされなかった。
もちろん、原告ら主張の松山北斜面山頂直下の亀裂が仮に存在したとしても、これは航空写真によっては、知り得ないものであったし、これを知った地元住民から被告国の担当機関に通報がなされた事実もない。
したがって、農林大臣が地すべり防止区域指定の前提として、松山北斜面における地すべり発生の高度の具体的危険を予見することは到底不可能であった。
三 請求原因に対する被告県の認否及び主張
(請求原因に対する認否)
1(一) 請求原因1(一)の事実は認める。
(二) 同1(二)の事実は知らない。
2(一)(1) 同2(一)(1)のうち、松山の標高、松山北斜面の傾斜が原告ら主張のとおりであること、本件崩壊が深層部分の崩壊であったことは認める。
(2) 同2(一)(2)のうち、本件崩壊による土砂の崩落が高速であったこと、本件崩壊が単発的な傾斜崩壊であったことは認める。
(二)(1) 同2(二)(1)のうち、松山北斜面に地すべりの履歴がなく、地すべり地形が存在しないことは否認する。
(2) 同2(二)(2)のうち、松山の主要な構成岩石である凝灰質砂岩の固結度が深層部についても低いこと、砂岩が乱され水浸されない限り安定しており、大雨や大雪という自然条件だけで崩壊を起こすような状態になかったことは否認し、その余の事実は認める。
(三)(1) 同2(三)(1)の事実は知らない。
(2) 同2(三)(2)ア、イ、ウの事実は知らない。
(3) 同2(三)(3)のうち、松山北斜面の山頂付近に亀裂が存在したこと、昭和四九年に記録的な豪雪の融雪水が急速かつ大量に供給されたことは認めるが、その余の事実は知らない。
(四) 同2(四)の事実は否認する。
3(一)(1) 同4(一)(1)のうち、県知事に原告ら主張の権限があったことは認めるが、その余の事実は否認する。
(2) 同4(一)(2)アのうち、建設省から各都道府県知事あてに四七総点検の次官通達が出され、その「実施要領」が調査の対象方法等の詳細を定めたものであることは認め、ウの主張は争い、エのうち、県知事が松山北斜面を急傾斜地崩壊危険区域に指定しなかったことは認めるが、その余の主張は争う。
(3) 同4(一)(3)アのうち、県知事が原告ら主張の告示をもって本件崩壊地の東側を急傾斜地崩壊危険区域に指定していたことは認めるが、その余の事実は否認し、イないしオの主張はすべて争う。
(4) 同4(一)(4)ア、イの主張は争う。
(5) 同4(一)(5)の事実は否認する。
(6) 同4(一)(6)の主張は争う。
(二)(1) 同4(二)(1)のうち、本件崩壊地のほんの一部が土砂崩壊防備保安林に指定されていることは認めるが、その余の事実は否認し、主張は争う。
(2) 同4(二)(2)の主張は争う。
(3) 同4(二)(3)の事実は否認する。
(4) 同4(二)(4)の主張は争う。
(三)(1) 同4(三)(1)のうち、仙台鉱山保安監督部長が被告県の防災会議の委員になっていることは認めるが、その余の主張は争う。
(2) 同4(三)(2)の主張は争う。
(3) 同4(三)(3)のうち、赤松部落の住民から、雪割れの通報が大蔵村役場にあり、同村の吏員がその後現地調査をしたことは認めるが、その余の事実は否認し、主張は争う。
(4) 同4(三)(4)の事実は否認する。
(5) 同4(三)(5)の主張は争う。
4 同5の事実はすべて知らない。
(被告県の主張)
1 権限不行使の違法性について
行政の規制権限不行使が「著しく不合理」であるといえる場合には違法となり、国賠法一条の責任が肯定されるが、その具体的基準は、従来の下級審判例によると、おおむね、①国民の生命、身体に対する具体的危険が切迫していること、②行政庁において、右危険の切迫を知り、又は容易に知り得べきこと、③行政庁において規制権限の行使をすれば、容易にその結果の発生を防止できること、④行政庁が権限の行使をしなければ、結果発生を防止できないこと(補充性)、⑤被害者たる国民としては、規制権限の行使を要請し、期待していること、とされる。
2 本件崩壊発生の具体的危険の予見可能性について
被告県の知事は、次のとおり、本件崩壊発生の具体的危険を容易に知り得なかったものである。
(一) 植生
本件崩壊発生前の本件崩壊地には、山麓から中腹にかけては四〇年から五〇年生前後の杉の一斉林が、中腹から山頂にかけては水楢、朴の木、万作等のほか、りょうぶ、すすき等の低灌木や草木が、また山頂には赤松がそれぞれ生育し、立派な森林が造成されており、崩壊が発生することを予見することは不可能であった。
(二) 住居建築と住民の意識
本件崩壊による土砂流が襲った山麓平地には、明治一八年以来九〇年の間、家屋が建築され、住民の生活の本拠となっており、住民である原告らにおいても、何らの危険を感ずることなく、本件のような崩壊を全く予想することができなかったのである。
(三) 雪割れの通報
昭和四九年三月末ころ、地元住民からの要請で大蔵村土木課長八鍬三郎が本件崩壊地の現地調査をしたが、右要請は、雪割れがあるから見てもらいたいというものであって、本件のような崩壊に結びつくおそれを前提としたものではなかった。八鍬三郎は、雪割れの危険もそれほど高いものではないと判断し、被告県にも連絡しなかった。被告県は、地元の住民からも、大蔵村からも、何らの連絡も受けていない。
(四) 単発急性型斜面崩壊の予見可能性
地すべり地形が明瞭に現れている場所において継続的に運動しているものや、短期間で繰り返し運動しているものは別として、かなり長期にわたって静止の状態にあった斜面がいつ動くかを予見することは不可能である。特に、本件崩壊のように、永い年代にわたって静止の状態にあった斜面が多量の融雪水の供給を受け、突発的に運動を起こす単発急性型斜面崩壊の発生を予見することは、当時の技術水準では正に不可能に属することであった。
(五) 亜炭採掘と斜面崩壊との因果関係についての知見
鉱物の採掘と斜面崩壊との一般的な因果関係については、当時、斜面崩壊機構の複雑多岐さはもとより、統計的に処理された資料も見当たらず、かつ、鉱物の採掘が斜面崩壊に結びつくとの一般的経験則も存在しない。被告県の知事としては、本件崩壊地域において亜炭採掘が行われた事実は認識していたが、それを直ちに斜面崩壊の予見に結びつけるのは到底不可能であった。
3 急傾斜地法違反責任について
(一) 崩壊危険区域の指定
急傾斜地崩壊危険区域の指定に関しては、「急傾斜地崩壊危険区域の指定について」(昭和四四年八月二五日建設省河砂発第五四号)という各都道府県知事あての建設省河川局長通達及び行政指導があり、この通達等によると、指定の基準は、①急傾斜地の高さが五メートル以上のもの、②急傾斜地の崩壊により危害が生ずるおそれのある人家が五戸以上あるもの、又は、五戸未満であっても、官公署、学校、病院、旅館等に危害が生ずるおそれのあるもの、とされており、右②については、急傾斜地(崖)の下端及び上端から該急傾斜地の高さの二倍程度の範囲(おおむね五〇メートルを限度とする)内に崖の上下合わせて五戸以上の人家が存する場合をいうとされている。
しかしながら、本件崩壊地域は、この指定の要件に該当しなかったのであるから、この指定に関する県知事の権限の行使について違法はない。
(二) 四七総点検
四七総点検の実施要領によれば、急傾斜地調査については、傾斜度三〇度以上、高さ五メートル以上の急傾斜地で想定被害区域内に人家一戸以上もしくは官公署、学校、病院、旅館、駅等がある場合は、その集落を小字単位(最小行政単位)ですべて「急傾斜地帯」として調査することとして、右急傾斜地帯に該当するかどうかは、デスクワーク(図面等)で行う旨定めている。そして、右急傾斜地帯に該当した場合初めて現地調査等により「急傾斜崩壊危険箇所」として、調査をして、危険度の診断をすべきものと規定している。
しかしながら、急傾斜地帯の要件の一つである「想定被害区域」については、急傾斜地下端から水平に急傾斜地の直高の二倍の距離とし、五〇メートルを限度とする、とされており、急傾斜地の下端とは、傾斜度三〇度以上の地点よりと解すべきであるから、本件崩壊地域は、想定被害区域に人家一戸もなかったのであり、そもそも急傾斜地帯にも該当しなかった。
したがって、被告県において、それ以上の調査をしなかったとしても、踏査義務違反若しくはその余の調査義務違反に当たらない。四七総点検の調査要領によると本件崩壊地域の危険度点数は一一点になるとの原告らの主張は、想定被害区域(崖から人家までの距離)の観点を全く欠落したものであり、また松山北斜面が過去に崩壊した実績はない。
さらに、急傾斜地法九条の規定に基づく勧告及び同法一二条一項の規定に基づく防止工事は、急傾斜地崩壊危険区域内において問題となるものであり、本件崩壊地域は急傾斜地崩壊危険区域の指定要件を充たさないため、その指定を行わなかったのであるから、この前提を欠くものである。
したがって、この点についても、被告県の知事の権限の不行使について違法はない。
4 保安施設事業の施行義務違反責任について
本件崩壊地は、崩壊前は良好な森林の状態を保っており、保安施設事業を行う必要はなかったのであるから、被告県の知事が農林大臣に対し保安施設地区の指定の申請をしなかったとしても、また保安施設事業を施行しなかったとしても、その権限不行使について違法はない。
5 地すべり防止工事の施行義務違反責任について
地すべり等防止法にいう「地すべり区域」とは、「地すべりしている区域又は地すべりするおそれがきわめて大きい区域」であって、本件崩壊地は、現に地すべりを起こしている区域でもなく、また、そのおそれが極めて大きい区域であるとはだれも予想しなかったものである。地すべりのおそれのない区域について、指定の申請をすることは、目的達成のために必要最小限のものでなければならないとする同法三条二項の趣旨に反することになる。
また、地すべり防止工事は、地すべり防止区域内で初めて問題となるものであり、本件崩壊地は地すべり防止区域指定の要件を充たさなかったため、農林大臣がその指定をしなかったものであるから、この前提を欠くものである。
したがって、被告県の知事には、これらの権限の不行使について違法はない。
6 被告県の防災義務違反責任について
仙台鉱山保安監督部長には、本件災害についての予見可能性がなかったことは、被告国の主張4(二)(3)のとおりである。
また、被告県の防災会議には、山形県防災会議条例、同運営規定により、幹事会を設置することができる旨定められており、幹事会において問題点のすべてを論議し、防災会議においてこれを承認するとの運営が行われていた。本件災害前の幹事会は、昭和四八年一一月二九日開催され、仙台鉱山保安監督部監督課長遠藤慎治が部長の委任を受けて出席したが、同課長から、本件崩壊地に関する発言は一切なかったのであるから、被告県の防災会議が本件災害を予見することは不可能であった。
さらに、被告県の防災会議は、会長及び委員の会議制により運営されており、議事は委員の過半数で決せられるものであるから、仮に、防災会議の一構成員である仙台鉱山保安監督部長の通常業務に不作為による過失があるとしても、直ちに防災会議全体の不作為による過失にならないことは明らかである。
なお、被告県が、地元の住民からも、大蔵村からも、雪割れについての何の連絡も受けなかったことは、前述のとおりである。
第三 当事者の提出、採用した証拠<省略>
理由
一本件災害の発生
昭和四九年四月二六日午後三時五分ころ、山形県最上郡大蔵村赤松地区にある、標高一七六メートル、北側の標高約九六メートル以上は傾斜約三〇度の松山の北斜面に、幅約五〇ないし一〇〇メートル、地表面の長さ約二〇〇メートルにわたる大規模な斜面崩壊(本件崩壊)が発生し、この崩壊による土砂流が大蔵村赤松部落の中心部がある山麓平地を、幅約一〇〇メートル、山麓からの長さ二〇〇メートルを超える範囲で襲い、死者一七名、負傷者一三名、家屋全壊一九戸、同半壊一戸という本件災害を発生させたことは、当事者間に争いがない。
二本件崩壊の原因
そこで、本件崩壊が松山の中腹を亜炭採掘のため掘削したことに起因して惹起されたものであるかどうかについて、判断する。
1 本件崩壊の概況
(一) 単発的斜面崩壊、崩壊速度
本件崩壊が単発的傾斜崩壊であったことは、当事者間に争いがない。気象、地質、地形等の自然条件がほぼ同一の斜面には、同時に崩壊が多発することがあるが、本件崩壊が単発的斜面崩壊であったことからすれば、本件崩壊には、場所的、時間的に特有の崩壊の原因があったということになる。
また、本件崩壊による土砂の崩落が高速であった(原告らと被告国との間では、平均で毎秒一〇ないし二〇メートルであった)ことは、当事者間で争いがない。
(二) 崩壊の形状と崩壊の原因の所在
前記一及び右(一)の争いのない事実に、<証拠>を総合すると、本件崩壊前後の松山北斜面の状況について、次の事実が認められる。
(1) 本件崩壊前の松山北斜面は、山頂付近にやや傾斜が緩やかな所があるものの、山頂(標高一七六メートル)から、ほぼ北方に水平距離約一五〇メートル、標高約九六メートルまでは傾斜約三〇度の急傾斜であり、そこから、ほぼ北方に水平距離約八五メートル、標高約七八メートルまでは傾斜約一二度の緩斜面となり、さらに、そこから本件崩壊による土砂流が到達した約一八八メートルまでは、田畑、人家が存在するほとんど傾斜のない山麓平地となっている。また、本件崩壊前の松山北斜面の植生をみると、山頂付近には赤松が散生し、山頂から中腹(標高約一五三ないし一三〇メートル)までは水楢、朴の木、万作等の広葉樹が、中腹から標高約七八メートルの山麓にかけては四〇〜五〇年生の杉が生立していた。
(2) 本件崩壊後の松山北斜面は、標高175.4メートルとなった山頂から、水平距離約三八メートル、標高約一四五メートルまでの部分と、山頂からの水平距離約九三メートル、標高約一三一メートルから、水平距離約四〇メートル、標高約一〇五メートルまでの部分に急傾斜面があり(特に、山頂部には斜距離約一五メートル、傾斜約六〇〜七〇度の馬蹄形滑落崖がある。)、上方の急傾斜面の直下にやや平坦な部分があってそれが下方の急傾斜面の上端に連続して突出部を形成し、さらに下方の急傾斜面の直下に水平距離約一五〇メートルの緩斜面が続き、さらに、水平距離約一四〇メートルまで土砂流が到達している。
(3) 本件崩壊により突発的に滑落した土砂は、約一五万ないし一七万立方メートルにも達し、土砂流が到達した北側前線部(舌端部)には、山頂から中腹にかけて生立していた水楢、朴の木、万作等の広葉樹が一部は直立したままの状態で多数存在し、その途中の右緩斜面の東西両側、特に標高約八六ないし七八メートル付近には、中腹から山麓にかけて生立していた多数の杉が根倒れ又は根抜けの状態で存在していた。その倒木方向は、東側では北ないし北東、西側では北ないし北西が多く、舌端部に行くほど破砕されたものが多くなっていた。また、前記滑落崖は黄色砂岩と白色砂岩で占められていたが、滑落崖でより下位にあった白色砂岩が舌端部付近に、より上位にあった黄色砂岩が上方の急傾斜面から緩斜面にかけて堆積していた。さらに、本件崩壊後に上方の急斜面からその直下の平坦部にかけてその中央部の三点(標高約一五八メートルのVB―六、同約一四二メートルのVB―A、同約一三七メートルのVB―七)をボーリング調査したところ、2.0〜3.45メートルの新規崩積土の堆積が認められ、また、中央部の標高約一〇四メートルの地点(VB―八)には新規崩積土が2.0メートル堆積した下に旧表土が1.0メートルの厚さで存在し、標高約九二メートルの地点(VB―九)には新規崩積土が2.7メートル堆積した下に旧表土が0.8メートルの厚さで存在していた。
(4) 松山北斜面の直下には、崩壊斜面中央部で標高一一九メートル付近に厚さ0.6〜1.0メートルの上層炭とその下位四〜八メートル付近に厚さ0.3〜0.6メートルの下層炭の二層の亜炭層が存在し、松山炭鉱においてこれを昭和四三年まで稼行採炭していた(この事実は、原告らと被告国との間では争いがない。)。その採掘範囲は、本件崩壊地の東、南、西側にも広がっている。また、右上層炭の上位数メートルの所には、比較的厚い泥岩層(不透水層)が存在する(採掘面直上位に比較的厚い泥岩層が存在することは、原告らと被告国との間では争いがない。)。
以上の事実(本件崩壊前後の地形の変化、ボーリング地点、採掘範囲等のおおよそについては、別図第一松山北斜面縦断図面、別図第二松山平面図のとおりである。なお、下層の採掘範囲のうち、南西部分は不明である。)が認められ、証人松野操平(第一回)の証言のうち、松山炭鉱の採掘範囲が本件崩壊地の南側(松山の稜線を越え南斜面の下位になる)や西側には及んでいなかったとする供述部分は、前掲各証拠に照らし、採用できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
右認定事実を総合して判断すると、特に、本件崩壊前後の地形の変化、新規崩積土の状況を考慮すると、本件崩壊は、上層炭の上位数メートルの所にある比較的厚い泥岩層の上面(その中央部では標高一二五ないし一三〇メートル付近)をいわゆる「すべり底面」の末端部として、そこから山頂までの部分では、最大深約二〇メートル程度崩壊したものと推認されるが、標高約一二五から一〇〇メートルの中腹部では、崩壊前後の地形の変化はほとんどなく、杉立木の根の深さよりも若干深い一〜二メートル程度崩壊し、その上に新規崩積土が二〜三メートル程度堆積しただけであると推認される。そして、この上部斜面の崩壊による土砂流が、下位の杉林を左右に押し分けるようにしてなぎ倒した上、山麓平地を襲い、舌端部まで到達していることも併せ考えると、本件崩壊の原因は、この上部斜面にあったものと認められる(本件崩壊の素因が上部斜面にあったことは、被告国の認めるところである。)。
(三) 杉林第一原因説について
<証拠>によれば、山形大学の遠藤治郎らは、標高一三〇メートル付近の杉林に裸地が存在し、水分過剰であったと認められることなどを理由に、本件崩壊の機構について、①標高約八〇〜一三〇メートルにある杉林地帯に、厚さ四〜五メートルの浅層地すべりを起こした、②この動きに誘発されて、間髪を入れず、山頂に近い標高一三〇〜一六〇メートルの部分にある水でほぼ飽和された砂岩がせん断応力を失って、山崩れを起こし、右①の崩壊斜面上を流下した、として、本件崩壊の第一原因を杉林の浅層すべりにあるとしている。
しかしながら、初めに杉林に厚さ四〜五メートルの浅層すべりが起こり、その動きに誘発されただけであるとすれば、何故上部斜面が最大深二〇メートル程度崩壊したかについて十分な説明ができないといわなければならない。また、杉林が先行して滑落して行ったものとすれば、杉は、緩斜面の東西両側に倒壊するのではなく、北側前線部(舌端部)にまで到達していてもよさそうであるのに、前記認定のとおり、緩斜面の東西両側に押し分けられたように根倒れ又は根抜けの状態で存在していたばかりでなく、山頂から中腹にかけて生立していた水楢等の広葉樹がその先の舌端部に一部は直立したままの状態で多数存在していたのである。杉林よりも上の斜面が先に崩壊したという<証拠>に照らしても、本件崩壊の第一原因を杉林の浅層すべりにあるとする遠藤治郎らの説は、にわかに採用できないというべきである。
2 融雪水の供給(崩壊の誘因)
昭和四九年に松山北斜面に記録的な豪雪の融雪水が急速かつ大量に供給されたことは、当事者間に争いがなく、<証拠>によれば、次の事実が認められる。
赤松地区は、山形県下でも有数の豪雪地帯であり、特に昭和四九年の冬は記録的な豪雪があって、三月末においても二メートル前後の積雪があったところ、四月一四日ころから気温が急上昇した。赤松地区に近い大蔵村清水の積雪量の推移をみると、一四日以降は一日あたり8.3センチメートルの積雪量の低下であり、これは降水量にしてほぼ四〇〜四五ミリメートルに相当する。松山は清水より積雪量が多いので右の量を上回る大量の融雪水が供給されたものと推定される。特に、本件崩壊発生の前々日と前日は快晴で、前日二五日の気温は急上昇し、融雪が大きかったと推定される。本件崩壊発生当時、山麓平地にも、三〇〜五〇センチメートルの残雪があった。
以上の事実が認められ、右認定事実に、前記1(二)に認定した事実を併せ考えると、本件崩壊は、松山北斜面に記録的な豪雪の融雪水が急速かつ大量に供給されたことが、直接の誘因(引き金)となって発生したものというべきである。
3 松山の地質と松山北斜面の崩積土
証人杉山隆二の証言中には、電気探査の解析や標準貫入試験のN値(成立に争いのない乙第一五号証及び弁論の全趣旨によれば、土質の強度あるいは岩盤の支持力をボーリングに併用して簡単に知ることのできる試験を標準貫入試験といい、その方法は、重さ63.5キログラムのハンマーを高さ七五センチメートルから自由落下させて打ち込み、三〇センチメートル貫入するのに要する打撃回数を測定するものであり、この場合の打撃回数を「N値」ということが認められる。)から、松山北斜面の崩積土の厚さを推定すると、本件崩壊地では崩壊前の状態で最大深二〇メートルくらいあり、本件崩壊は、この厚い崩積土に多量の融雪水が浸透し、上部では回転すべりを起こし、水が非常に集まった所では土石流となって下へ流れて行ったものであって、古い地すべり地跡の再活動であると考えられる旨の供述部分があり、<証拠>には、これに沿う各記載がある。また、<証拠>の中にも、過去に山崩れの生起した所とか、本件崩壊が旧地すべり地内における再活動であるとの各記載があり、さらに、乙第四五号証には、かつての地すべりで移動し、斜面の中腹にとどまっていた大土塊(厚さ一三メートル)が多量の融雪水の供給を受けて浅層すべりを起こしたとの記載がある。
右供述部分及び各記載が採用できるとすれば、亜炭採掘のため掘削したことに起因するとの事実は否定されることになる。
そこで、松山北斜面の地質と崩積土等について、検討する。
(一) 松山の地質と土質
松山の地質が、地質学上、新第三紀鮮新世に属し、凝灰質砂岩、泥岩、シルト岩が互層状に累積し、この間に前記二層の亜炭層を含め五〜一〇層の亜炭層を挟有しており、これらの地層の走行はほぼ南北で、東に約一〇度傾斜する単斜構造となっていること、主要な構成岩石である凝灰質砂岩の固結度が、少なくとも浅層部については低いことは、当事者間に争いがない。
<証拠>によると、本件崩壊直後現地調査を行った山形大学の志田勇、皆川信弥らは、松山北斜面の凝灰質砂岩について、元来軟弱で水を含みやすく、水を含めばさらに軟弱となる性質を有する、と報告していることが認められる。しかし、ボーリング資料の検討、志田勇の行った電気探査以外にどのような調査検討を行ったかは明らかでなく、右電気探査も、元来の凝灰質砂岩も軟弱であったという点についてどのような検査を行ったかは明らかでない。
<証拠>によると、その後引き続いて調査した東北大学の河上房義らは、崩壊地及び周辺部の岩石等について各種の土質試験を行った結果として、現地の凝灰質砂の静的内部摩擦角は三〇度以上であると判定し、また、頂上付近の滑落崖から採取した固結度の高い褐色凝灰質砂岩の不攪乱試料と同程度の密度をもつ乱した試料についての一面せん断試験の結果、水浸条件及び構造の乱れにかかわらず、内部摩擦角はほとんど変化しなかったが、粘着力は水浸条件によっては変化しないものの、乱されると大きくその値が低下したことから、一度乱された試料の粘着力成分はほとんど期待できないと思われると、判定していることが認められる。
また、<証拠>によれば、新潟大学の松野操平は、上層二坑道の坑内で採取した砂岩(0.4キログラム)を湿度六〇パーセント、温度二〇度の恒温恒湿室に四週間放置し、再び水に浸したところ、粒子は分離し完全な砂になったと報告していることが認められる。松野操平は、右試料を不攪乱の砂岩としているが、<証拠>によれば、松山炭鉱では、坑道及び切羽の掘削に、発破も使用されていることが認められるので、右試料は発破で乱されていたばかりでなく、坑道内で風化作用も受けていたものと推認される。乱された資料であったから、水浸条件下で砂状になったものと考えると、河上房義らの試験結果とも一致する。
これらの土質試験結果によれば、松山の主要な構成岩石である凝灰質砂岩は、水浸されるだけでは、それほど強度が低下しないが、乱されると粘着力が著しく低下してしまうというのであるから、乱されない元来の状態では、軟弱とまでいうことはできず、証人松野操平(第二回)、同中川鮮(第一回)の供述のとおり、自然条件だけでは直ちに崩壊を起こすような状態ではなかったものと推認される。松山の凝灰質砂岩が元来軟弱であったとする<証拠>の各記載は、にわかに採用できない。
被告国は、ボーリング調査の結果によると、松山北斜面の地表から数メートル以下の基盤は、上部約数メートルはある程度の変質を受けているが、稼行炭層までの間は整然とした地層の配列が見られ、岩石の硬さが保たれている旨主張し、乙第八号証にも、皆川信弥の報告として、稼行炭層の整然とした状態、その上位の亜炭層の賦存状況からみて大きな擾乱はないとの記載がある。
しかし、大きな擾乱はなかったとしても、<証拠>によると、本件崩壊地の中腹以上の上部斜面で行われたボーリングは六本だけで、その結果から直ちに整然とした地層の配列が見られるといえるかどうか疑問があるばかりでなく、<証拠>によると、ボーリングによって地下の岩石等を細長く円柱形に切り取る形で採取されるボーリング・コアはかなり粉々になっており、それだけでは直ちに地層が整然としているかどうか、岩石の硬さが保たれているかどうかは判然としないことが認められるから、右主張及び記載は、直ちに採用できない。
(二) 原告側調査の亜炭露頭、非稼行炭層、採掘時の着炭状況及び火薬庫付近の崩積土
<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。
(1) 原告側が昭和六〇年九月から同六二年六月までの間に三回にわたって松山北斜面の現地調査をしたところ、本件崩壊地内の標高122.44メートルから同114.42メートルの間に東西幅で約六〇メートルにわたって、松山北斜面の地層傾斜と同じく西上がり約八度の直線上の位置に、一二の亜炭露頭が現地表の直下数十センチメートルの所に確認され、これらの亜炭露頭を結ぶ線上に、現在の坑口からほぼ南へ真っ直ぐ水平に坑道が約三〇メートル延びていることが確認されている上層三坑道の坑口が存在し、右坑口近くの坑道の東壁には亜炭が存在する。また、ボーリング調査の結果、上層空洞と認められる空洞(VB―七及びVB―Aの各空洞、VB―一六の上位の空洞)の標高と、これらとほぼ南北の線上に位置する亜炭露頭(VB―七及びVB―Aの各空洞と亜炭露頭五番、VB―一六の上位の空洞と亜炭露頭一一番)の標高とはそれぞれ一致している。(右の亜炭路頭とボーリングの位置、東西、南北の位置関係のおおよそは、別図第三ボーリング及び亜炭路頭位置図、別図第四東西断面図、別図第五南北断面図(一)、別図第六南北断面図(二)のとおりである。)
(2) 本件崩壊後の斜面安定工事中に、本件崩壊地の東縁部標高約一二四メートルの地点に陥没口として開口した非稼行坑道(そのおおよその位置は、別図第二松山平面図のとおりである。)の西側及び東側の壁面には、厚さ0.7〜1.0メートル、西壁面入口で上面の標高124.57メートルの亜炭層が、ほぼ南向きの奥行約二八メートルの掘削中止地点まで水平に連続しており、近接しているボーリング地点(VB―一六)の亜炭層の位置とも一致している。
(3) 松山炭鉱では、上層二坑と上層四坑を除くその余の坑道は、いずれも地表面からほぼ南へ真っ直ぐ延びており、直ちに着炭している。亜炭は地表直下数十センチメートルの所に存在していたが、坑口から二〇メートルくらいは腐食炭であったため、採炭しなかった。上層二坑は、坑口予定地が沢のそばであったので、東側から迂回して着炭したものであり、また、上層四坑は、上層三坑から一部採炭した後中断していた上層四坑の奥部の採炭を再開するにあたり、運搬の便宜から上層三坑口の上位に新たに上層四坑口を設けて掘進していたところ、誤って下層四坑道に突き当たったため、測量士の早坂正道に測量を依頼するなどして上層四坑道に至ったという経緯があったので、採炭坑道までの坑道が右に左に屈曲しているのであって、いずれも亜炭の露頭を把握することができず着炭するまで苦労して掘進したためではなかった(各坑道のおおよその位置は、別図第二松山平面図のとおりである。)。
(4) 本件崩壊地の東端から東へ約一五メートル、標高一二一メートル付近の崩壊地の外側にある旧火薬庫の入口西側の壁面には、基盤である凝灰質シルト岩の上位に、厚さ約1.3メートルの旧表土、崩積土及び現表土が認められた。
以上の事実が認められ、<証拠>の各記載のうち、VB―七及びVB―Aの空洞を下層の廃坑としている部分、並びに、坑口付近は古い地すべりのため露頭を把握することができず着炭するまで苦労して坑道を掘進しなければならなかったとの被告国の主張に沿う<証拠>は、前掲各証拠に照らし、にわかに採用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。
(三) 原告側調査の亜炭露頭は上層炭かどうかについて
<証拠>によれば、被告国側がその後調査したところ、原告側調査の亜炭露頭の走向傾斜は非常に乱れているばかりでなく、一部の亜炭露頭についてのトレンチ(溝掘り)調査によれば、この亜炭層は、層厚の膨縮が激しく、途中で尖滅しており、全体的にブロック化(塊状化)し、その間に著しく粘土化したシルト岩が入り込み、さらに亜炭の上下盤のシルト岩、砂岩層が著しく粘土化(モンモリロナイト化)していることが観察されたことが認められる。
証人杉山隆二は、このことから、これらの亜炭露頭が上層炭の露頭であるとは考えられず、上位の未稼行炭層が並行移動して落ちてきた疑いがあり、少なくとも、古い地すべり移動地塊であることは間違いない旨供述している。
しかしながら、まず、右供述は、松山北斜面は永い間の地すべりの繰り返しで地層はぐずぐずになっており、崩壊地の東西幅いっぱいに同一層準の亜炭層が松山の地層の傾斜を保ったまま連続した状態で存在しているということはあり得ないという同証人の従前の供述と明らかに矛盾するものといわなければならない。また、<証拠>によれば、右トレンチ調査は、これらの亜炭露頭のうち、一部の、しかも地表から水平距離で二〜三メートルの所までしか行われておらず、その亜炭層が上層炭と連続していないことを認めるに足りるものではない上、右(二)(1)に認定したとおり、これらの亜炭露頭は、崩壊地内の東西幅約六〇メートルにわたって松山北斜面の地層傾斜と同じ直線上に位置し、その線上には上層三坑道の亜炭層が存在するなど東西方向に連続しているばかりでなく、ボーリング調査による上層空洞と南北方向にも一致していることに照らすと、上層炭の露頭であると推認するのが相当であって、これを否定することはできず、また、これらの亜炭露頭の位置からみて、右亜炭露頭が数メートル以上にわたって移動した地塊であるとは認められないというべきである。右亜炭層の膨縮、尖滅、ブロック化等の現象は、永い間の表層の風化作用と、本件崩壊で上部の土塊が稼行炭層上を滑落して行く際の大きな摩擦や、崩壊後の斜面安定工事の際のブルドーザー等の振動等によるものと推認される。
(四) 松山北斜面の中腹以上の崩積土
前記(二)(1)ないし(4)に認定した事実に、右(三)のとおり、原告らが確認した亜炭露頭が上層炭の露頭であると推認されること、さらに、前述のとおり、本件崩壊は、標高約一二五メートルから一〇〇メートルの中腹部では、一〜二メートル程度崩壊しただけであると推認されることを併せ考えると、本件崩壊前の崩壊斜面中央部の標高百十数メートルから一二五メートルの中腹部においては、亜炭層やそれを挟む砂岩層が大きく破断されて段差が生じたり、褶曲したりしている事実は認められないというべきであり、また、坑口から二〇メートルくらいは腐食炭で採炭しなかったことや、右亜炭露頭がブロック化していることなどに照らすと、地表近くの地層がある程度の風化作用を受けているものと推認されるが、かつての地すべり活動によって大きな地盤変動を受けたものとは認められず、したがって、厚さ一〇ないし二〇メートルもの崩積土が存在しないことは明らかである。一般に、崩積土層は、山麓から中腹へ、さらに山頂部へと斜面の上部に行くに従ってその厚さが漸減するものであることも併せ考えると、証人中川鮮の証言(第一回)のとおり、崩壊前の松山北斜面の中腹以上の斜面には厚さ一〜二メートル程度の崩積土しか存在しなかったものと推認される(そのおおよその状況は、別図第一松山北斜面縦断面図のとおりである。)。
このような崩積土の厚さからみても、本件崩壊が旧地すべり地内の再活動であるとは考えられないというべきである。
したがって、右認定に反する<証拠>は採用できない。
もっとも、<証拠>によれば、標高約九二メートルのボーリング地点(VB―九)には、新規崩積土の下に約一二メートルに及ぶ旧表土を含む崩積土が存在していることが認められる。そして、被告国は、山麓平地には、少なくとも最大深さ11.4メートルにも達する旧崩積土が山麓から約四〇メートル北方まで広く堆積していることが認められ、このような大量の崩積土が河川の側方浸食によって急傾斜地となった松山北斜面の斜面崩壊によって形成されることはあり得ない旨主張する。
しかしながら、<証拠>を総合すると、右地点は、崩壊前標高約九〇メートルで、前記認定の崩壊前傾斜約三〇度の急傾斜から傾斜約一二度の緩斜面に変わる標高約九六メートルの所から水平距離約二五メートルの下位斜面に位置し、右の傾斜が変わる所の上方には傾斜約三〇度、高さ約八〇メートルの斜面が存在すること、右ボーリング地点の旧崩積土が最も厚く、右地点から水平距離約五〇メートルの上位斜面にある標高約一〇四メートルのボーリング地点(VB―八)の崩積土は最大にみても厚さ約7.5メートル(杉山証人のいう深度9.5メートルから新規崩積土二メートルを控除)であること、VB―九の旧崩積土の下位には最上川や銅山川、赤松川による運搬物である段丘砂礫層があるが、VB―八にはそれがないこと、以上の事実が認められる。これらの事実によれば、VB―八とVB―九との間に河川の側方浸食によって急傾斜地となった地山と段丘の境があり、VB―九は、その山麓のすぐ下方に位置し、その上方には、少なくとも高さ八〇メートル以上、傾斜三〇度を超す斜面が存在していたということになる。この急斜面が、古い地質時代から、赤松地区の集落立地以前の数百年以上前までの間に、徐々に斜面崩壊して本件崩壊前の斜面になったとすれば、VB―九に右の程度の崩積土が堆積することも十分に考えられるものというべきである。
松山北斜面の崩積土の状況は、以上のとおりであり、前述のとおり、本件崩壊は、その中央部の標高一二五ないし一三〇メートル付近から山頂までの部分では、最大深約二〇メートル程度崩壊したものと推認されるのであるから、本件崩壊は、表層の崩積土にとどまらず、基盤、基岩に属する地山深部まで崩壊したものと推認される。
4 地下水せき止め断層の存否
被告国は、本件崩壊地及びその周辺には、多数の断層が存在し、これによって地下水がせき止められる構造となっていたことが、本件崩壊の素因である旨主張し、証人杉山隆二の証言及び乙第七〇号証には、これに沿う供述部分及び記載があるので、以下、地下水せき止め断層の存否について、検討する。
(一) 地下水せき止め断層
<証拠>によれば、次の事実が認められる。
東海大学の杉山隆二は、地すべりと断層の関係について、次のような説を唱えている。すなわち、河谷の底浸食や側方浸食により河岸の地塊が不安定になり含水しなくても岩石のまま崩れ落ちる崩落を除けば、崩壊・泥流・土石流などを含めた地すべりの大部分は、岩石が多量の地下水を含有することによって惹き起こされるものであり、地表近くや斜面のかなり上の方で水を止めるものがなければ、地すべりは発生しない。その水を止めているのが断層であって、断層は、岩石が食い違い細かくなり粘土化して水を止めるのであり、地すべりの原因となる断層は、基盤中に存在するもので、地形図では分からないような非常に小さいものでも水を止め得るのである。長野県の茶臼山地すべりでは、絶えず下方に滑動していた地すべり地内の上沼の位置が地すべりの進行にもかかわらず変わらなかったのは、その位置に断層が通り、その断層の所から湧水があると考えられるからであり、また、富山県氷見市の胡桃地すべりでは、地すべり地内の堂田ヶ池が地すべりにより約二〇〇メートル下方に移動し枯渇してなくなったが、堂田ヶ池の元の位置の所に再び湧水が認められたが、これは、その位置に断層が存在し、その断層から湧水があると考えられるからである。
右認定の杉山説によれば、地すべりの原因となる地下水せき止め断層は、地すべりにより滑動しなかった基盤の深くまで及ぶものであることが明らかであり、地すべり後も湧水が見られるようなものであるということになる。
そして、原告らと被告県との間では、争いがなく、原告らと被告国との間では、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第四七号証の中の茶臼山地すべりの解説の平面図、横断面図には、上沼は表示されていないが、上沼があるとされている位置にほぼ相当すると認められる所(横断面図のイ―イ断面のほぼ中央)の地すべりにより滑動している部分の深さは、優に三〇メートルを越えると認められるので、杉山説によれば、茶臼山地すべりの上沼を通る地下水せき止め断層は、それよりもさらに深部の基盤に及んでいるということになる。
(二) 皆川報告書の断層について
<証拠>によれば、山形大学の皆川信弥は、本件崩壊後の前記滑落崖東壁の標高一六〇メートル付近に、亜炭が約六メートル下がっている所があった(その走向傾斜は北五〇度東・七〇度西)ほか、それより若干下位の所に断層によって生じたほぼ北西―南東方向の亜炭の亀裂(説明とスケッチ図は一致しないが、スケッチ図によれば、北五〇度西・七〇度南西で約1.2メートル、北七五度西・八〇度南で約四四センチメートル)があり、滑落崖西壁の標高一七〇メートル付近には、約3.5メートルの断層で亜炭が落ち込んでいる所があって(その走向傾斜は北南・五二度北)、この東西の断層は一連のものであろうと報告していることが認められる(なお、前掲乙第四五及び第四六号証にも、滑落崖東壁に地質時代の古い断層を意味する「盤折れ」が観察されたことが報告されている。)。
東西の断層が一連のものであるとすれば、この断層は標高一六〇ないし一七〇メートル付近で東西に崩壊地を横切っていることになり、これが杉山説のいう地下水せき止め断層であるとすれば、大きく崩壊した中央部でも、崩壊しなかった基盤にまで及んでいたはずであるが、右乙第七及び第八号証、丙第一一号証によっても、これらの亜炭の亀裂や落ち込みがどの範囲まで地層を破断しているかについて説明がなく、明らかでない。
滑落崖西壁の標高一七〇メートル付近の断層による亜炭の落ち込みの走向は北南であるから、これが杉山説のいう地下水せき止め断層であるとすれば、被告国の主張するように、西側及び南側の地表から供給された地下水が地層の傾斜に従って東方に流れたとしても、本件崩壊地に到達する以前に、その西端部でその断層によってせき止められてしまうことになるはずである。
また、<証拠>によれば、皆川信弥は、山崩れ地帯における現在(昭和四九年六月一日)の地下水位面は地下水湧出箇所の最上位で、この最上位面は、西側では標高一三〇メートル、中央部では一二七メートル、東側では一二三メートルの地点であるとしていることが認められるから、少なくとも、皆川信弥は、前記亀裂や落ち込みを地下水せき止めを伴う断層とはみていないというべきである。右各証拠のスケッチ図によれば、滑落崖西壁の約3.5メートルの亜炭の落ち込みは、亜炭層の一部が楔状に破断されて引っ張られたように開き、そこに崩落土が堆積したように描かれていることが認められるから、単なる引っ張り亀裂のようにも解される。
以上のとおりであるから、皆川報告の断層を地下水せき止め断層と認めるに足りる証拠はなく、却って、地下水湧出を伴わないことや、一部は単なる引っ張り亀裂にもみられることからすれば、否定的に解さざるを得ないというべきである。
(三) 杉山意見書の断層について
<証拠>によれば、杉山隆二は、昭和五九年五月七日と八日の現地踏査で認められた湧水点から、本件崩壊地の東端の標高一五五メートル付近と南西端標高一七〇メートル付近を結ぶ断層、本件崩壊地の標高一三〇メートル付近をほぼ東西に横切る断層、その他の断層が存在すると推定しており、また、本件崩壊一週間後に撮影された空中写真から作成された地形図から谷系を読み取り、これに電気探査の解析結果を加えると、本件崩壊地の東端標高一五五メートル付近を通るほぼ走向北五〇度西の断層のほか多数の断層が存在すると推定していることが認められる。
そして、右証言の中には、皆川報告書に記載されている亜炭層(前記二層の稼行亜炭層)の露頭線と地層の走向傾斜が一致しないのは、たくさんの断層で次々と切られているからであると思うとの供述部分や、基盤というか下の地質の構造を反映して水を止めている所があることなどから下の断層を推定するとの供述部分があり、さらに、杉山隆二が湧水点や電気探査の解析結果に基づいて総合判断した主要な東西方向の断層が描かれている右乙第七〇号証の図七と成立に争いのない乙第七九号証を対照すると、杉山隆二が稼行上層亜炭層より上位にあると推定している主要な東西方向の断層は、稼行上層亜炭層にまで及んでいると認められることなどを併せ考えると、稼行上層亜炭層より上位の斜面にあると推定されている断層は、稼行亜炭層に垂直変位を与えていることになるはずである。
しかしながら、<証拠>を総合すると、松山炭鉱においては、上層坑道も下層坑道も着炭後はいずれもほぼ真っ直ぐ南へ延びており、坑道内の運搬は木製単車による入力運搬で、坑内水は自然排水であったことが認められ、これらの事実を総合すると、坑道はほぼ南北に水平であって、段差や食い違いはなかったものと認められる。
確かに、右証言によれば、坑道の地表に近い所には、坑夫らが「目」と呼ぶ亜炭層の割れ目が三尺ごとくらいにあったことが認められるが、同証言からは、南側への坑道の掘進で前方の炭層が確認できないような段差があったことは窺えず、他にそのような段差があったことを窺うに足りる証拠はない。
前述のとおり、本件崩壊は、上部斜面では、基盤、基岩に属する地山深部まで最大深約二〇メートル程度崩壊したものと推認されるが、その「すべり底面」の末端部となったのは、上層炭の上位数メートルの所にある比較的厚い泥岩層(不透水層)であったことに照らすと、皆川報告でいう、崩壊地西側で標高一三〇メートル、中央部で一二七メートル、東側で一二三メートルであったという地下水湧水箇所や、杉山隆二の現地調査で認められたという標高一三〇メートル付近の湧水点は、この不透水層の上面から湧出するものと解するのが自然てある。この不透水層と杉山説のいう地下水せき止め断層との関係は明らかではないが、標高一三〇メートル付近の湧水点は、地下水せき止め断層の存在を考えなくても、十分説明が可能であるというべきである。
さらに、杉山隆二が標準貫入試験のN値をも考慮して電気探査の解析結果に基づいて松山北斜面に一〇ないし二〇メートルもの旧崩積土が存在するとして図示した前掲乙第七九号証が、前述のとおり、旧崩積土の点については採用できないことに照らすと、地形図の谷系の読み取りがあるとはいえ、同じく同人が電気探査の解析結果に基づいてその存在を推定した多数の断層についても、その存在に疑問があるといわざるを得ない。
以上のとおりであるから、前掲乙第七〇号証、証人杉山隆二の証言によっては、本件崩壊地の標高一三〇メートル付近をほぼ東西に横切る断層、東端の標高一五五メートル付近を通る走行北五〇度西の断層のほか多数の地下水せき止め断層が存在することを認めるに足りないというほかなく、他にそのような断層の存在を認めるに足りる証拠はない。
5 本件崩壊と亜炭採掘との関係
原告らは、松山炭鉱の亜炭採掘の結果、松山の中腹に広範囲に空洞が生じたことにより、以後上位地盤は沈下作用を受け、また免圧圏内の岩盤にゆるみが生じ、泥岩層は沈下作用に対してたわみで対応できるが、塑性の小さい砂岩や炭層などはこれに対応できず、せん断面が入りヘアクラックが発生し、亜炭採掘面の上位地盤は、砂岩層を中心にブロック化され、岩盤の強度を著しく低下させるとともに、雨水や融雪水の地下浸透を容易にし、乾湿の影響を受けることになり、風化が促進された、こうして、昭和四九年当時松山の北斜面山腹の凝灰質砂岩は著しく強度が低下していたところへ、記録的な豪雪の融雪水が急速かつ大量に供給された結果、本件崩壊が発生した旨主張し、<証拠>には、これに沿う部分がある。
そこで、以下、原告らの右主張について、検討する。
(一) 松山炭鉱における採炭方法等
<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。
(1) 松山炭鉱では、昭和一六年から試掘権に基づく採掘が始まり、昭和二九年には鉱業権設定が許可されて本格的な採掘が行われ、昭和三二年、三三年の最盛期には年間の生産量が二〇〇〇トン前後に達したが、昭和四三年に休山した(終戦後から本格的な採掘が始まったこと、昭和四三年まで採掘していたことは、原告らと被告国との間では争いがない。)。
(2) 松山炭鉱で採用された採掘の方式は、主として前進式昇向階段払法であった(この事実は、原告らと被告国との間では争いがない。)が、この方式は、坑道や保安炭柱の大きさ、枠の間隔、file_10.jpgの充填方法等に変遷があるものの、おおよそ次のようなものであった(その状況は、別図第七坑内平面図、別図第八支柱規格図のとおりである。)。
すなわち、上層・下層とも坑道の間隔は五〇〜六〇メートル、坑道の高さと幅はいずれも約1.5メートル(上幅は狭く、下幅は広い)で一〜二メートルごとに三ツ留枠を施し、坑道の肩側(西側)には幅約三メートル、長さ約八メートルの保安炭柱を南北方向に存置し、採掘は、坑道約一〇メートルごとに保安炭柱を設け、西側に向かって、肩側の坑道まで採掘するもので、全体的な採掘方向としては、一つの坑道を単位として北側(坑口側)から南側に向け、その採掘が終了すると、西側に設けた坑道を利用して、再び南側に向かって採掘するものである。切羽内の中央には、高さ約1.0メートル、幅約1.2メートルの見通し坑道を設けて1.0〜1.5メートルごとに鯖枠を施し、その余の切羽は採炭時の下盤透かしfile_11.jpgを手詰充填する。また、深け掘りを行い、1.0〜1.3メートル間隔に二列の打柱を施し、この空間部分に坑道の掘進によるfile_12.jpgを充填し、また見通し坑道両側には、採炭時の透かしfile_13.jpgをそれぞれ2.0〜3.0メートル幅に昇り向きに帯状になるように石垣積み手詰充填するというものであった。
以上の事実が認められる。なお、松山炭鉱では、必ずしも右の方法が遵守されたわけではなく、上層一、二坑では、残して置くべき保安炭柱も採炭されたことは、後記認定のとおりである。
(二) 地下採掘が上位地盤に及ぼす影響
次に、地下の石炭採掘やトンネル掘削が上位地盤に及ぼす影響、石炭採掘と亀裂、地すべりとの関係について検討する。
(1) 地下採掘と地表沈下
<証拠>によれば、石炭採掘と地表沈下の関係、トンネル掘削による地表及び地中への影響について、次の事実が認められる。
石炭採掘など地下採掘が地表沈下をもたらすことがあることは早くから知られており、採掘範囲に対応した一定範囲の地表の沈下が不可避的に発生することは、一九一九年レーマンが「地表陥落に関する理論」で発表したが、このレーマンの理論は定性的な説明だけであったため、その後、イギリスやドイツで地表沈下の定量的な関係を求める研究が進められ、我が国においても、西田正、平松良雄らによって、いくつかの影響地帯計算法が発表された。通産省では、昭和三二年から福岡通産局で本格的な鉱害測量を実施したが、その測量の解析結果である「石炭鉱害概論」(昭和五〇年版)によると、調査した一六例の炭鉱のほとんどは長壁式採炭法(切羽長一〇〇〜二〇〇メートルに及ぶのもある)で、深度も大半が二〇〇メートルを超えるものではあったが、地表沈下の発生しなかったものはなかった。限界角(地上の沈下が完全に終息している地点と採掘端とを結んだ直線(正確には面である)と水平線(正確には水平面)との交わり角のうち鋭角の方をいう。)は採掘方法、深度に影響されず五〇〜六〇度であるが、沈下率(地表上の一点Pを通り水平面と限界角に等しい傾斜をなす直線が、点Pを通る鉛直線の周囲を回転して炭層上に描く円を、点Pに関する完全面といい、完全面を全部採掘することによって点Pに完全な沈下をもたらすが、そのときの沈下量を、採掘山丈で除した商を沈下率という。)は、採掘率、file_14.jpgの充填率によって大きく影響され、累層採掘では一層採掘による沈下率より大きくなり、一六例中三例を除くと、その沈下率は五〇パーセント以上で、八〇パーセントを超すものも数例ある。調査例中、B炭鉱は、深度六〇メートル、残柱式昇払で水力充填、上層、下層の充填率はそれぞれ約五五、三五パーセントで三〇〜四〇センチメートルの沈下が発生している。深度七〇〜一四〇メートル、山丈0.63メートル、炭丈0.50メートルで短壁式採炭(払長四〇〜六〇メートル)のM炭鉱でも、二〇〜三〇センチメートルの沈下が発生した。深度九〇〜一三〇メートル、山丈1.6〜1.7メートル、炭丈1.7メートルで長壁式採炭(払長一〇〇メートル)のE炭鉱も、五〇〜一〇〇センチメートルの沈下が発生した。残柱式昇採炭で採掘率五〇パーセント程度、気力完全充填をしたH炭鉱の場合に、初めて沈下率を一〜三パーセントに抑えることができた。
また、旧日本国有鉄道(以下、「国鉄」という。)は、鉄道建設に際して、用地買収の困難さなどから全延長に対するトンネルの占める割合が非常に大きくなってきたことや、入口の都市集中などから建造物の多い被りの薄い地山であってもトンネルとせざるを得なくなってきたことなどから、沈下の予想される被りの薄いトンネルも建設するようになり、その施工に際して、公害又は地圧制御対策上の見地から、地層沈下及びトンネルに作用する地圧現象の調査研究を行ってきた。その研究成果の一つである「鉄道技術研究報告」(昭和四六年五月号)によると、土被り6.5〜27メートルの風化帯、軟岩、未固結堆積層からなる七つのトンネルでの調査事例で、掘削工事中、十分な支保工を施し、コンクリート覆工を施すなどすべて地山のゆるみを極力制限する手段を講じたにもかかわらず、いずれも地表沈下を生じ、トンネルの横断方向での地表沈下の終点は、トンネル側壁から三五〜六〇度(平均四五度)の仰角範囲に起こり、地上構造物に実害を与える不等沈下量を二センチメートル程度と仮定すれば、その領域は四五〜八五度(平均七五度)の仰角範囲となった(その一例は、別図第九のうちの「徳重トンネルA側線」のとおりである。)。
以上の事実が認められ、これらの事実によれば、ほとんどは長壁式採炭で、深度も大半が二〇〇メートルを超えるものであるが、残柱式昇払、深度六〇メートルのものや、短壁式昇採炭、深度七〇〜一四〇メートルのものもある石炭採掘の事例では、残柱式、採掘率五〇パーセント程度、気力完全充填を行った特別の場合に限って、沈下率を極少に抑えることができたが、その外のほとんどの場合は沈下率五〇パーセント以上であったこと、また、固結度の低い地盤では、土被りの薄いトンネルの掘削にあたって、地山のゆるみを極力制限する手段を講じても地表沈下の発生を阻止できないことが明らかである。
(2) 地中沈下及び岩石破壊
<証拠>によれば、地中沈下と免圧圏内の岩石破壊の進行状況について、次の事実が認められる。
地下採掘によって上位地盤に発生する沈下は、不等沈下である(その一例は、別図第九のうちの「徳重トンネルA側線」のとおりである。)から、沈下の伝播過程で岩石、殊に塑性変形の困難な岩石等が破壊され、従前の岩盤がブロック化される可能性が極めて高く、その沈下量が大きければ、岩盤のブロック化は避けられない。このように、上位地盤は小さな区画で不等に沈下していくから、岩石や地層には、一層破断、ねじれが発生しやすい。
一方、空洞周辺への破壊の伝播現象、空洞上部のグランドアーチの形成について、「鉄道技術研究報告」(昭和四六年九月号)によると、おおよそ次のとおりである。すなわち、地下に空洞を開けると、その部分が受け持っていた応力は周壁の部分に肩代わりされ、弾性論によれば、掘削前の静的な状態の2.7〜3倍になる。トンネル周辺に発生する増加応力に対して、岩石又は岩盤の強度が不足すれば、周壁に破壊が生じ、増加応力と強度の均等が保たれるところまで逐次発展する。こうしてトンネル周壁の岩盤は岩石塊の集合体に変化する。このとき側壁の支持が弱いと側壁基部に卓越したすべり面が入る。そこに摩擦抵抗で作用するので、逐次破壊が誘発されて、グランドアーチが形成される。このグランドアーチは時間とともに拡大する。グランドアーチで囲まれた地山は、掘削前の地中応力(一時応力)又は掘削後のトンネルの周りの応力(二次応力)とは無関係に、弱い結合力を持った一種岩塊の集合体、すなわち免圧された部分とみなされる。この意味でグランドアーチは免圧圏(地下に空間が生じると、空間の上方及び下方にアーチ形の地圧の伝達にあずからない部分が生じるが、これを免圧圏という。)に相当する(「トンネルの垂直軸及び水平軸に働く力」「グランドアーチ及び免圧圏の形成」は、別図第九のとおりである。)。
免圧圏内の岩石が破壊されても、これによって地層の逆転などの擾乱は起こらず、岩塊のN値も直ちに低下することにならないが、こうした状態となれば、岩盤としての強度を失うとともに、地塊は地下水の浸透を容易にする。
また、右「鉄道技術研究報告」によると、上位地盤のゆるみ範囲について、テルツアギーは、地質に応じて最終的に形成されるゆるみ範囲の高さを求める経験式を発表しており、それによれば、普通程度に割れ目のある岩石の場合は、空洞の高さとその幅の合計値の二五〜三五パーセント、割れ目の多い岩石の場合は、右合計値の三五〜一一〇パーセントの高さの楕円の範囲となる。
さらに、常磐自動車道の建設にあたって、周辺の古洞調査が実施された。「応用地質」(昭和六〇年一二月号)によると、常磐高萩炭鉱では、古第三紀層漸新世の砂岩、頁岩、石炭、炭質頁岩などの地質で構成される岩盤内で、昭和初期に石炭採掘をしたが、その採炭坑道(高さ、幅とも二メートル)の破壊で坑道の高さの三〜四倍まで地盤のゆるみが起きていたことが報告されている。
以上の事実が認められ、これらの事実によれば、地中に空洞が生じると、その上位地盤では、沈下の過程や免圧圏内で、岩石、殊に塑性変形の困難な岩石等の破壊が発生し、岩盤がブロック化し、岩石塊の集合体に変化し、岩盤としての強度を失うとともに、地塊は地下水の浸透を容易にすることになるというべきである。また、松山炭鉱における切羽の奥行きを約二五間(約四五メートル)、透かしを含めた採掘丈を七〇〜九〇センチメートルとし、松山がテルツアギーの二五〜一一〇パーセントの係数が適用される地質であるとすると、採掘面上部一一〜五〇メートルの範囲でゆるみが発生することになり、稼行炭層(本件崩壊地中央部で標高およそ一二〇メートル)より上位の地盤は、山頂まで大半ゆるみの範囲に入ってしまうことになる。
(3) 石炭採掘の亀裂、地すべり
<証拠>によれば、石炭採掘と亀裂、地すべりとの関係について、次の事実が認められる。
長崎県北部から佐賀県西部にかけては、各地に地すべりが頻発している事実は古くから知られており、北松地すべり地帯と呼ばれていたが、この地方は古くから炭田として開発された地方でもあったことから、頻発する亀裂、地すべりが石炭採掘に起因する鉱害ではないかとも考えられた。長崎県の委嘱を受けて、昭和二七年五月に一三箇所の亀裂、地すべりを調査した九州大学の野田光雄は、一二箇所は自然条件によるもので採炭による被害とは認められないとしたが、佐々町木場の亀裂については、採炭がその被害の時期を早め、あるいは程度を重くしたであろうと判断した。次いで、農林省技官小貫義男は、同年八月、一週間にわたって、野田光男の調査箇所の一部を含む二〇箇所を調査し、一般論として、「炭田地帯で地下に賦存する石炭を採掘する結果、地盤の衝動、弛緩により地表に陥没、亀裂等が現れ、これに伴って匍行移動が起こり、かつ家屋、耕地等に被害を及ぼし、水田、貯水池等の濁水、湧水及び井戸水等の減水枯渇、道路、橋梁、鉄道等の歪曲、折損等各種の現象が起こってくることがあるが、これらは一般に鉱害といわれるものである。鉱害の現れる状況は、地形地質条件、炭層の賦存状況、採掘跡の充填、坑道の維持等諸種の関係によって一様ではない。炭層の上下盤の悪条件に伴って落盤、盤ぶくれ、坑道の移動等が起こって重圧が加わり、支保工が折損、圧砕され、これに伴って地表に陥没、亀裂等が生ずる。この場合地表における変動量は、炭層の厚さよりもはるかに大であることが通例である。これは地層を構成する岩石の節理の有無、断層の伏在、岩質等によって種々異なり、また地表の傾斜地では、陥没と同時に下方又は側方に押し出して匍行を生ぜしめ、あるいは地層の傾斜側に陥没亀裂が生じ、そのためさらに傾斜方向に移動する原因となって地すべりを起こさせる。これは鉱害による地すべりと考えられる。」と論じ、佐々町のほか、江迎町猪調の地すべり(後に「鷲尾岳地すべり」と呼ばれる。)、佐世保市皆瀬上小川内免の地すべり及び陥没が鉱害に誘導されたものと推定したが、他の箇所については、鉱害によるものではないと判断した。
一方、遠藤隆一は、昭和二八年、江迎町鷲尾岳付近の地すべり(鷲尾岳地すべり)と採炭との関係について、否定的見解を示し、小出博は、同年の「長崎県の地辷り」では、志戸氏地すべり(鷲尾岳地すべり)についても、採炭との関係について何も触れなかったが、「日本の地辷り」(昭和三〇年九月発行)では、長崎・佐賀両県の地すべりと石炭の採掘との関係について、否定的な事実はあっても、この二つを結びつける肯定的な事実はほとんどないといってよいとした上、佐賀県の山代地すべりについて、石炭採掘のためにあらわれたと考えられる特別の現象は見られない、炭坑は地すべり現象の被害者ではあっても、地すべりを起こした原因と考えることは無理ではないかと思うと述べて、明確に地すべりと石炭採掘との関係を否定していた。しかし、同人は、「日本の国土(下)」(昭和四八年九月発行)では、第二次大戦後長崎県、佐賀県に発生した多くの単発急性型地すべりについては、戦時中から戦後の石炭採掘による鉱害の疑いがあり、単純な自然現象とみることはできない、として説を改めるに至ったが、石炭採掘が地すべりの発生とどのような係わりを有するかについては明確に述べていない。また、昭和四五年二月の防災科学技術総合研究報告「北松型地すべりの発生機構および予知に関する研究」によると、鷲尾岳地すべりと石炭採掘の関係については、相反する二つの見解があり、この問題についての手掛かりは得られていない、とされている。
ところが、「アーバンクボタ」(昭和五七年三月発行)によれば、国立防災科学技術センターの大八木則夫は、鷲尾岳地すべりについて、昭和四四年ころの地すべり調査坑での観察では、地表面の開口亀裂は、意外にも、すべり面より下位には連続していなかったが、これは、次の考えを否定するものではないとして、「地下掘削部の上の地層に僅かでもたわみを生ずると微小な亀裂を多数発生させ、地層の浸透性が局部的に著しく増大する。降水、地下水は、容易に炭層に達し、モンモリロナイト質粘土を湿潤、膨潤させてせん断強度を著しく低下させる。」との見解を示し、石炭採掘と地すべりとの因果関係に肯定的であり、さらに、鷲尾岳地すべりの南東約四キロメートルの所で発生した平山地すべり(地すべりの規模は、最大幅九六〇メートル、奥行七六〇メートル、深さ最大一四〇メートル、平均四〇メートル、面積五六ヘクタール、体積一九〇〇万立方メートルで、北松地帯で戦後活動した地すべりの中では最大規模のもので、地すべりの下位八〇〜一二〇メートルに松浦三尺と呼ばれる良好な炭層があり、採掘後間もなくして井戸水の枯渇、湧水の減少等の初期兆候が現れて、地すべりに至ったもので、移動は伏角四度の水平に近いものであった。)について、「井戸水の枯渇や湧水の減少は、岩盤内の亀裂の激増とこれによる地下水の下位の地層への浸透を意味しており、脚部付近の亀裂発生は、地すべり移動が始まっていることを表したものである。岩盤内の亀裂増加は、地下採掘による上位地層のたわみによるものと考える。」として、明確に因果関係を認めている。
この間、各通産局長に対し、地元住民から鉱害復旧の申立てがあったもののうち、通産局長のみで認定することが困難で最高度の科学技術的能力を動員して実地に調査究明し解明することを要するものについて実施された通産省の鉱害認定科学調査では、昭和三八年に、鷲尾岳地すべりについて、「採掘を終った今日においてもなお動きつつある。しかも、①毎年五〜七月の雨期にその移動が烈しいこと、②雨期でも坑内の湧水量はほとんど変わらないことなどからみて、雨水が地下に浸み込んで粘土質の層をすべりやすくし、地すべりを起こさせているものである。………このため、採掘が地表沈下あるいは移動を生じさせるとしても、地すべりを起こさせる要因とはなっているとは考えられない。」として、鉱害ではないと認定されたが、一方、佐賀県多久市の亀裂の発生(昭和二八年ころから農地及び家屋に被害が生じ、同三四年から三九年の長期にわたり、家屋の床下や丘陵地に亀裂が生じ、地すべりのような段差が発生したもので、調査の結果、亀裂の発生した地域は、その中に地すべり再発の可能性をもつ粘土層を有する厚さ二五メートル以上の崩積土の上にあり、このような地域で、深度一六〇メートル以上の地下において長壁式で石炭を採掘したことが誘因となって亀裂が発生したと判定された。)、昭和三六年ないし三七年に調査された長崎県樽川内地域及び調川地域の各地すべりの発生、同県世知原町の地すべりの前兆たる亀裂の発生(調査の結果、この地域は、厚さ約二五メートルの赤色粘土質の崩積土で形成され、自然的に匍行現象を起こしやすい状態にあり、このような地域で、深度一一〇メートル以上の地下において石炭を採掘したことにより亀裂が発生したものと判定されたが、大きな地すべりに発展する可能性はないとされた。なお、野田光雄、小貫義男が既に調査していた世知原町長田代地区の地すべりについては、石炭採掘とほとんど関係なく降水その他の原因による自然発生的なものと考えられるとした上、採掘に伴う上部岩石内の亀裂の発生が地すべりを僅少ながら助長したということも考えられるとしている。)などの事例が、昭和四〇年から四二年に石炭採掘によるものと認定された。
以上の事実が認められ、これらの事実によれば、長崎県北部と佐賀県西部のいわゆる北松地すべり地帯に発生した亀裂、地すべりのうち、特定のものについては、石炭採掘によるものと指摘する学説があり、とりわけ、国立防災科学技術センターの大八木則夫は、地下掘削部の上の地層に僅かでもたわみを生じると微小な亀裂が多数発生し、地層の浸透性が局部的に著しく増大して、降水、地下水が浸透し、モンモリロナイト質粘土を湿潤、膨潤させてせん断抵抗力を著しく低下させる、とほぼ原告らの主張に沿う見解を示しているというべきである。また、鉱害認定科学調査でも、長崎県の二つの地すべりと二つの亀裂(もっとも、この二つは、いずれも厚い崩積土で形成された地形で、もともと地すべりや匍行現象を起こしやすい状態にあった。)が、石炭採掘によるものとされた。
もっとも、<証拠>によれば、大八木則夫外二名は、前記「北松型地すべりの発生機構および予知に関する研究」の中で、「北松地帯の戦後の地すべり活動は採炭と関係あるのでないかという疑いがかけられている。例えば、地すべり地の地表にみられる幅広い開口の亀裂は、その直下の採炭鉱区における落盤陥没と直接的つながりがあるものと考えられ、これに伴う地盤の傾動が地すべりを誘発したと考えられた。しかし、最近になって、そのような亀裂の下部へ地下水の排水隧道を掘削した結果、亀裂の直下において岩盤はまったく乱されておらず、採炭鉱区の影響がこのような直接的なものではないことがあきらかになってきた。」としているが、「アーバンクボタ」の前記見解とも照らし併せると、石炭採掘との関係が直接的ではないとしているだけであってその関係を否定しているものとは解されない。
(三) 松山炭鉱における沈下等
松山炭鉱における採掘方法等及び地下採掘が上位地盤に及ぼす影響は、以上のとおりであるので、さらに、松山炭鉱における坑道、切羽の天盤の沈下、崩落及び地表沈下について検討する。
(1) 採掘中の坑道、切羽の天盤沈下
<証拠>によれば、採掘中の坑内の状況について、次の事実が認められる。
松山炭鉱では、採掘中、坑道の天盤が落ちたことがあるほか、時折下がってくるので、天盤を削って枠を付け替える必要があった。切羽でも、天盤が落ちて採炭夫だけでは処理できなくなって坑道掘進夫が片付けをしたことがあるほか、上からの重圧で天盤と打柱の間に横に差し込んである笠木が割れたり、打柱が折れることもあった。五十嵐久雄が松山炭鉱で稼働していた昭和三二年までの間に、上層三坑の保安炭柱ははずさなかったが、上層一、二坑については、採炭終了時に奥部の方から、採炭夫が落盤に巻き込まれないように慎重に保安炭柱も採炭した。保安炭柱をはずすと、天盤が下がって押し縮まるだけの場合もあるが、ほとんどの坑道は潰れてしまった。
以上の事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。
さらに、<証拠>中には、file_15.jpgを充填できたのは、切羽の三分の一くらいで、松山炭鉱では、盤ぶくれはなかったが、上からの重圧で天盤が下がってきて、切羽ごとの採炭が終了する六か月経過したころには、三尺くらいの高さがあった切羽が、file_16.jpgを充填できた部分でも、二分の一から三分の一程度に縮まってしまう、そうすると、充填したfile_17.jpgは岩のように固くなってくるのでそれ以上天盤は沈下しない、切羽の中にある見通し坑道は、下に溝がついているので、保安炭柱をはずしても二尺くらいの空間が残った、との供述部分がある。
確かに、<証拠>によれば、測量士の早坂正道が、昭和四一年の七月と九月に上層三坑口の上位に新たに坑口を設けて掘進していた上層四坑道に入っており、鉱務監督官らも同年七月から昭和四四年三月までの間に数回にわたって上層四坑道に立ち入っており、採掘中の切羽や採掘を終わったばかりの切羽内にも立ち入っているが、保安炭柱は残されており、顕著な天盤の沈下はなかったことが認められるが、他方、右各証拠によれば、早坂正道が昭和四一年の七月に入ったときは、新たに掘削済みの部分だけであり、九月には上層四坑道にも一部入っているが、改修された部分だけで、操業中止中の上層四坑道の奥部(それより南側と、新たに坑口を設けて掘進した坑道が上層四坑道に到達した所より北側)には危険で入れなかったこと、鉱務監督官らが立ち入った坑内もいずれも新たに掘削ないし改修された部分であり、切羽も八〜一〇メートル四方のものが一つか二つだけであって、その他の採掘跡は、file_18.jpgで充填されていたり、危険があって入れなかったことが認められる。前記認定のとおり、従前の切羽は、五〇〜六〇メートルの間隔のある隣接の坑道にまで及ぶものであるから、これと比べると、鉱務監督官らが立ち入った切羽は非常に小さく、切羽天盤への荷重も従前の切羽と比較すると、はるかに小さかったはずであるから、鉱務監督官らが立ち入った切羽に顕著な天盤の沈下がなかったからといって、直ちに従前の切羽にも顕著な天盤の沈下がなかったとはいえない。早坂正道や鉱務監督官らが坑内に立ち入った事実によっては、証人五十嵐久雄の右供述部分を左右することはできないというべきである。
また、証人石浜渉の証言中には、松山炭鉱では、前進式昇向階段払法が採用されていたことや、採掘箇所が地表から五〇メートル以内であったことなどから、採掘跡の空洞は、そのままとはいえないにしても、かなり永い間、残るはずで、目に見えるような沈下は起こらない旨の供述部分があり、乙第三一号証にも、同旨の記載がある。さらに、被告国は、炭層の薄い松山炭鉱で右のような採掘方法を採り、採掘跡を充填していたこfile_19.jpgとから、上位地盤の攪乱や地表沈下現象が生じる可能性は極めて少ない旨主張する。
しかしながら、<証拠>によれば、同証人は、坑内の爆発関係に関する分野の研究を専門とする者であって、地下の採掘が地表の沈下や陥没にどのような影響を与えるかについては、これまで研究の対象としたことがなく、実地調査や文献調査もしたことがなく、鉱害認定科学調査の制度があることすら知らず、前記「鉄道技術研究報告」についても知らないことが認められること、前記認定のとおり、残柱式昇払ではあるが、深度六〇メートル、水力充填、上層、下層の充填率それぞれ五五パーセントのB炭鉱でも、地表沈下が発生していること、土被り6.5〜27メートルの固結度の低いトンネル掘削では、地山のゆるみを極力制限する手段を講じても地表沈下の発生を阻止できないこと、これらの地表沈下は当然地中の沈下も生じていると考えられることなどに照らすと、右供述部分及び記載、被告国の主張は、にわかに採用し難い。
他に証人五十嵐久雄の前記供述部分を左右するに足りる証拠はない。
右供述部分に、前記認定の坑内の状況を併せ考えると、松山炭鉱の最終段階で採掘された再開後の上層四坑の切羽以外の大半の切羽は、file_20.jpgが充填されなかった部分は勿論のこと、file_21.jpgが充填された部分であっても、採炭終了後は人が入ることなど予定されていないものであって、採炭終了時ころには、担当程度の天盤の沈下があったものと推認される。
(2) 松野報告、原告側調査にみられる坑道内の崩壊
<証拠>によれば、新潟大学の松野操平らが、本件崩壊後の斜面安定工事中に開口した上層二坑道と上層三坑道と認められる坑道を調査したところ、上層二坑道は旧坑口から五メートル付近までの間は、地表に達する落盤で埋まっており、旧坑口から三四メートル付近で落盤により塞がれていてそれ以上は取り開けることもできず、奥に入れなかったこと、上層三坑道は、旧坑口から一一メートル付近までの間は、地表に達する落盤で潰れており、旧坑口から二一メートル付近で落盤により塞がれていたことが認められ、前掲甲第九四号証によれば、松野操平らが上層三坑道としたのは、上層四坑道であると認められる。
また、<証拠>によれば、原告側が昭和五八年五月に松山北斜面の直径一メートル前後の陥没口の四〜五メートル下位に存在した上層二坑道と判断される坑道を調査したところ、陥没地点の直下から旧坑口に向かっていると認められる東南東方向に数メートルの間は、比較的旧状をとどめていたが、その先は奥に行くに従って天盤や周壁からの崩落物が厚く堆積し、十数メートル先で完全に塞がっており、反対方向は土砂に埋まっていたこと、この坑道は地表に近いため空洞内には木の根が垂れ下がっていたことが認められる。
ところで、前述認定のとおり、上層二坑道は坑口予定地が沢のそばにあったので東側から迂回して着炭しており、<証拠>によれば、旧坑口から三四メートル付近は、坑道が西向きないし西北西方向でむしろ地表に向かっているところで、原告側が昭和五八年に調査した土砂で埋まっていた反対方向の坑道にほぼ相当し、かなり地表に接近している場所であること、上層四坑道も、旧坑口から二一メートル付近ではまだ地表に近く、本件崩壊前には地表まで一〇メートル程度であることが認められる。したがって、松野操平や原告側の調査結果にみられる坑道の落盤、閉塞は、地表に近く従前からある程度の風化作用を受けていることが推認される地盤が、俗に「つぼ抜け」といわれる浅所陥没を起こしたものとみることも可能であるから、右事実から直ちに地表からみて深部にある坑道部分も同様の落盤、沈下、崩落を起こし閉塞されているものとみることはできないというべきであるが、地表からみて深部にある坑道は、坑道の上位にある地盤が従前から風化作用を受けてはいないが、坑道天盤への荷重はより大きなものと推定されること、前記認定のとおり、上層二坑道は採炭終了時に保安炭柱も採炭されており、上層四坑道のうち昭和四一年以降早坂正道や鉱務監督官らが立ち入った部分を除くその余の部分は、file_22.jpgで充填されていたり、危険があって入れなかったことに照らすと、上層二坑道、及び上層四坑道のうち早坂正道や鉱務監督官らが入らなかった部分で地表からみて深部にある坑道は、落盤、圧壊の危険が多いばかりでなく、落盤、沈下、圧壊している部分もあるものと推認される。
次に、<証拠>によれば、被告国側が閉塞されていた坑道を昭和六二年四月に取り開けした上層三坑道について、原告側が同年五月三一日及び同年六月二日に調査したところ、坑口から一〇メートル付近から、当時奥部の方から既に埋め戻されていて到達することができた坑口から二二メートル付近までの間は、一部はもともとの壁面が残っているところがあったものの、大部分はfile_23.jpgが充填され新しい矢板で補強もされていたことが認められる。
原告らは、取り開け前の上層四坑道は全く旧状をとどめていなかった旨主張し、右甲第九四号証中には、坑道の東側では深け掘りが行われ、西側では保安炭柱が採炭されており、保安炭柱取り払い後の坑内は、落盤、圧壊の危険が高く坑内への出入りは事実上不可能で、採炭終了時やその後に奥部までfile_24.jpgで埋め戻すことは考えられないので、坑道の閉塞は主として天盤の崩落によって発生したものと考えられるとの記載がある。
しかしながら、<証拠>によれば、上層三坑道が初めて他の坑道すなわち上層二坑道から延びている坑道と接合する、坑口から二五メートル付近までは、坑道の西側に切羽はなく、まだ上層の採掘範囲には入っていないものと認められるから、原告側の右調査結果から、直ちに上層三坑道が坑口から一〇メートル付近から二二メートル付近まで深け掘りや保安炭柱の取り払いが行われたものとは認め難い。また、前記認定のとおり、上層四坑口は上層三坑口の上位に新たに設けられたものであって、右各証拠によれば、上層四坑口は、上層三坑道の坑口から一〇メートルくらい入った所の上位約5.8メートルの所に設けられ、両坑道がほぼ二〇メートルくらい並行して南方に延びており、坑道の高さを約1.5メートルとすると、上層三坑道の天盤と上層四坑道の床面との間には約4.3メートル程度しかなかったことが認められるから、上層三坑道の坑口から一〇メートルくらいから、三〇メートルくらいまでは、すぐ上位に新たに設けられた上層四坑道の影響を特に大きく受けたとも推測される(右各証拠並びに前掲乙第二七及び第二八号証によると、松山炭鉱では、ほとんど上層を採炭した後に下層の採炭に移っており、また上位の坑道と下位の坑道が交差する形で上下の位置関係になる場合はあっても、上下並行している所はほかにはないことが認められる。)。さらに、新たに上層四坑口を設けて掘進するに際し、坑道の床面の崩落を防止するため、すぐ下位にある上層三坑道の部分、少なくともその坑口付近をfile_25.jpg等で充填し補強することも考えられないではない(証人庄司徳雄の証言によると、鉱務監督官庄司徳雄が上層四坑道を掘進中の昭和四一年七月に立入検査をした際、上層三坑道の坑口はfile_26.jpgでもって閉塞されていたことが認められる。)。
そうすると、深け掘りが行われ、保安炭柱が採炭されたとの右甲第九四号証の記載は、採用し難く、仮に天盤の崩落によって旧状をとどめていなかったとしても、右のとおり、すぐ上位に新たに設けられた上層四坑道の影響を特に大きく受けたためとみることもできるので、その状態から直ちに他の坑道も同様であるとはいえないが、<証拠>によれば、被告国側が取り開けした後の昭和六二年五月二一日ころには、上層三坑道は、坑口から三〇メートル付近まで立ち入ることができたが、それより先は天井の部分に人が入れるくらいの空間があっただけであることが認められること、前記認定のような上層二坑道、上層四坑道の状況に照らすと、上層三坑道も、地表からみて深部にある坑道部分は、落盤、沈下、圧壊の危険があるばかりでなく、落盤、沈下、圧壊している部分もあるものと推認される。
(3) 調査ボーリングがとらえた空洞
<証拠>によれば、本件災害後間もなくして行われたボーリング調査の結果、稼行炭層を貫通しているボーリング五本のうち、VB―一六が上位で四〇センチメートル、下位で三五センチメートル、VB―Aが九〇センチメートル、VB―一七が七〇センチメートル、VB―七が一六五センチメートルの空洞をとらえたことが認められる(この事実については、原告らと被告国との間では争いがない。)。
まず、VB―一六の空洞について、<証拠>によれば、上の空洞の上には二〇センチメートルの炭が残っており、下の空洞の上は亜炭と泥岩の互層となっていることが認められる。証人石浜渉の証言中には、右事実から、透かし掘りをしたが採炭しないでしまった箇所であるとの供述部分があるが(透かし掘りについては、別図第八支柱規格図参照)、上下二層にわたってこのような状況にあったとするのは余りにも偶然すぎること、<証拠>によれば、松山炭鉱では、天盤を保持するため、原則として、炭層の上の一部を「かぶり炭」(天盤炭、天端炭)として残していたが、炭層の薄い下層では、途中で落ちてしまうこともあったことが認められる。そうすると、上の空洞の上部の残炭は天盤炭、下の空洞の上部は採炭したがその上が亜炭と泥岩の互層となっていたものと推認される。<証拠>によっても、二つの空洞の下にはfile_27.jpgの存在は窺えないから、上の空洞は、炭層の採掘丈が五〇〜七〇センチメートル、透かし掘りが二〇センチメートル程度のものが、四〇センチメートルに下がったもの、下の空洞は、炭丈が四〇〜五〇センチメートル、透かし掘りが右の程度であったものが、三五センチメートルに下がったものであって、いずれも天盤の沈下した切羽の空洞と推認するのが相当である。
次に、VB―Aの九〇センチメートルの空洞については、これが上層の空洞であることは、前記認定のとおりであり、<証拠>によっても、天盤炭やfile_28.jpgの存在は窺えない。右空洞が切羽の空洞であるとすると、採炭したままの状態が維持されていることになるが、天盤炭も残されず、file_29.jpgも充填されなかった切羽の天盤が全く沈下しなかったというのは、不自然であるから、見通し坑道の天盤が若干下がったものと推認するのが相当であり、<証拠>によれば、右ボーリング地点と上層三坑道とは若干ずれがあるようにも窺われるが、坑道の天盤が半分近く沈下した可能性もないわけではない。
次に、VB―一七の七〇センチメートルの空洞については、<証拠>によれば、右空洞は下層の空洞であること、<証拠>によれば、右空洞の下は八〇センチメートルのfile_30.jpgが充填されており、上は砂で標準貫入試験のN値は一二とその上位の地盤と比較しても土質の強度が著しく低下していること<証拠>によれば、右ボーリング地点と下層二坑道とは数メートル程度のずれがあること、がそれぞれ認められる。右ボーリング地点は、切羽で採炭後file_31.jpgが充填されたが、近接の未充填部分の天盤の崩落に伴って右地点の天盤も崩落し、空洞が生じたものと推認される。
最後に、VB―七の一六五センチメートルの空洞については、これが上層の空洞であることは、前記認定のとおりであり、右空洞は比較的旧状をとどめている坑道の空洞と推認される。
以上のとおり、稼行炭層を貫通している五本のボーリングのうち、上層については、VB―一六、VB―A、VB―七の三本が空洞をとらえ、下層については、VB―一六、VB―一七の二本が空洞をとらえており、VB―一六は上層、下層とも空洞をとらえていることに照らすと、坑内に空洞として残る部分は二〇〜三〇パーセントであり、採掘跡は充填file_32.jpgと含水盤ぶくれにより圧密安定する旨の被告国の主張及びこれに沿う<証拠>は、にわかに採用できない。確かに、VB―七の空洞のように比較的旧状をとどめているものもあるが、被告国の主張するように、空洞の存在をもって、採掘跡が整然と保持されていることを示すものとは到底いえない。特に、VB―一六の空洞がいずれも切羽の天盤が沈下したものと推認されることに照らすと、右ボーリング調査結果は、亜炭採掘による上位地盤の沈下、崩落を裏づけるものというべきである。
(4) 平松鑑定意見による地表沈下
<証拠>によれば、被告国の依頼を受けて、京都大学の平松良雄が、同被告の主張する採掘範囲と採掘量を基にして、亜炭の実収率を記録による採掘量から五〇パーセントと推算し、沈下率を地盤が軟弱であることを考慮して一として、松山の亜炭採掘による地表への影響範囲や沈下量を計算したところ、上層、下層とも採掘した本件崩壊地内の沈下量は、約五〇センチメートル、殊に山頂付近での沈下量は約六〇センチメートルとなったことが認められる。
右のとおり、平松鑑定意見も、亜炭採掘による地表沈下を裏づけるものというべきである。
(四) 松山炭鉱における亜炭採掘が上位地盤へ与えた影響
次に、松山炭鉱における亜炭採掘が上位地盤へ与えた影響について、検討する。
(1) 電気探査結果
<証拠>によれば、次の事実が認められる。
電気探査は、地下に電流を流し、岩石や地層の電気的比抵抗値を測定して、地下構造をある程度推定するものである。本件崩壊地については、崩壊直後に山形大学の志田勇が、崩壊値に三点、西側斜面に三点、東側斜面に二点の電気探査を行った結果、崩壊地及び東側斜面は、比抵抗値曲線(ローエー曲線)に乱れがあり、その基盤の比抵抗値は低く、しまりのゆるい砂岩で、崩壊時の雪融により多量の水分を含有していたものと思われるが、西側斜面は一般に比抵抗が高く岩質は同じでも緻密で固い砂岩層よりなるものと推定できる、と報告している。
また、昭和五八年四月と五月に本件崩壊地周辺で電気探査を実施した京都大学の中川鮮は、その調査結果を次のように指摘している。
すなわち、まず、志田勇が西側斜面で行った電気探査地点と比較的近い地点で行った電気探査はほぼ同じ結果であったことから、地下部は九年前とほとんど変化していないと判断した。次に、互層になっている場合は多少のばらつきがあるものの、泥岩と砂岩の堆積する安定した地山の示す標準的なローエー曲線は、地表で数百オーム以上の比抵抗値を示し、以下深度を増すに従って比抵抗値が漸減するもので、一定深度(数十メートル)以上では、そのまま比抵抗値が減少する傾向を示すものと、回帰的に増加傾向を示すものとがある。西側斜面では、このような標準的なローエー曲線になっており、含水も少なく安定した地下構造となっているものと考えられる。しかし、崩壊地内の中腹以上の斜面では、地表で一〇〇〜二〇〇オーム程度の低い比抵抗値を示しているばかりでなく、そのローエー曲線は上、下の変化が大きく不連続で、比抵抗値が急増、急減の変化を示すものもある。比抵抗値の急上昇は、空洞の形状を持つ地下構造を、全体的に比抵抗値が低いことは、地層中の含水が多いことを、比抵抗値が不連続に変化していることは、この部分の地下構造が乱れて不安定な状態にあることを、それぞれ示しており、崩壊地の中腹以上の斜面はこのような状態にあるものと推定される。
以上の事実が認められる。証人杉山隆二の証言中には、志田勇及び中川鮮の電気探査のローエー曲線図に基づいて比抵抗値等値曲線図を作成したところ、等値曲線が地表と水平にならず乱れており、地表と斜交ないし直交するところがあるのは、その付近に地下水せき止め断層があるからであるとの供述部分があり、前掲乙第七〇号証にもこれに沿う記載があるが、前述のとおり、地下水せき止め断層の存在を認めるに足りる証拠はないから、右供述部分及び記載は採用できない。
他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
前記(二)及び(三)に検討したところも併せ考えると、右認定の志田勇及び中川鮮の電気探査の結果認められる右ローエー曲線の乱れは、切羽ないし坑道の空洞による比抵抗値の上昇と、岩盤の亀裂ないし免圧圏内のゆるみによる地下水の浸透、滞留を示すものと推認される。
(2) 非稼行坑道の亀裂
本件崩壊後の斜面安定工事中に、本件崩壊地の東縁部標高約一二四メートルの地点に、掘削中止地点まで奥行約二八メートルの非稼行坑道が陥没口として開口したことは、前記認定のとおりであるが、さらに、<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。
非稼行坑道は、東側の下層二坑道と西側の上層二坑道との間の上位にあり、非稼行坑道の直下には、約一〇メートル下位に上層一坑道の切羽があり、その下位四〜五メートルに下層二坑道の切羽がある。昭和六一年八月に原告側で調査したところ、その坑道壁面には、未採掘の粗悪な亜炭層を中心にその上下に多数の亀裂の発生が認められた(原告側が調査した非稼行炭層の壁面に、亀裂の発生が認められたことは、原告らと被告国との間では争いがない。)。その大きさは、大小様々で開口部六センチメートル以上のもの、それ以下で数センチメートルのもの、微小で計測できないものなどに分類できる。坑口付近、坑口から一五メートル付近及び坑口から二六メートル付近には、特に大きな開口亀裂があるが、坑口から一七メートル付近から二二メートル付近のようには大きな開口亀裂の見られない所もある。坑口から七メートル付近までは特に湧水の著しい区間で、この区間は右側壁・左側壁とも水がしたたり落ちているが、その区間でも、開口部には、僅かに酸化鉄の付着物が見られる程度で、上部の地山の流入はなく、膨張性粘土の挟みもなく、いずれも丸みを帯びず新鮮であった(なお被告国側の調査によれば、坑口から二メートル付近と一八メートル付近の左壁面の開口亀裂にそれぞれ粘土の付着が認められた。)。西壁面の中央部には、亜炭層とその下部のシルト岩との間に走る長さ数メートル(断続的に続き全体では十数メートル)の水平亀裂もあるが、大多数の亀裂の走向傾斜は、北六五度東・七〇度北西を中心に一定方向を示している。そのため、左右の壁面の亀裂はそれぞれ空洞を挟んで連続しているように見えるが、左右につながるのは三分の一程度であった。一方、原告側が昭和五八年に調査した上層二坑道の地表に近い部分の壁面には、若干のヘアクラックは認められるが、非稼行坑道で見られた開口亀裂は認められなかった。
以上の事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。
被告国は、まず、右亀裂の産状をもって、その生成時期を本件崩壊発生の昭和四九年に近い採炭時以降であると特定できない旨主張する。
確かに、亀裂の産状だけでは、その生成時期を特定できないというべきであるが、被告国の主張するように、右亀裂が採炭以前に生じていた地すべり地塊内の節理(亀裂)であるとすれば、赤松の集落が誕生して以来松山北斜面に大規模な崩壊や地すべりが発生したという記録がないことは、当事者間に争いがないから、おおよそこの数百年間は大規模な崩壊等はなかったということになり、そうであるとすれば、長い間地下水の通過を受けていたと認められる地表に近い亀裂には、少なくとも多少の粘土の挟みがあるはずである。しかるに、右認定のとおり、特に湧水の著しい区間においても、亀裂の開口部には、僅かに酸化鉄の付着物が見られる程度で、上部の地山の流入はなく、膨張性粘土の挟みもなかった(ただし、被告国側の調査によれば、二つの亀裂に粘土の付着が見られた)というのであるから、右亀裂は、自然の営力によって採炭以前に生じていた地すべり地塊内の亀裂ではないというべきである。また、前記認定のとおり、松山炭鉱では、坑道及び切羽の掘削には、手掘りのほか、発破が使用されたのであるから、非稼行坑道の掘削にも、発破が使用されたものと推認され、亀裂が非稼行坑道掘削時に既に生成されていたとすれば、亀裂の破断面は損傷し、開口部には掘削した土砂が詰まるはずである。ところが、右認定のとおり、開口部には土砂の挟みがなかった(被告国側の調査によれば、二つの亀裂に粘土の付着があった)というのであるから、非稼行坑道内の亀裂は掘削後に発生したものというべきである。
また、被告国は、右亀裂の走向傾斜が、稼行開始時に既に発生していた坑夫が「目」と呼ぶ亜炭層の割れ目の走向傾斜とほぼ同一と考えられるのは、いずれもその成因が自然の営力によるものであるからである旨主張する。
前記認定のとおり、松山炭鉱では、坑道の地表に近い所には、坑夫らが「目」と呼ぶ亜炭層の割れ目が三尺ごとくらいにあったが、<証拠>によると、この割れ目は、稼行開始時に既に発生していた縦の割れ目でそこには粘土が詰まっており、べとべと濡れているものもあったことが認められる。この亜炭層の割れ目の走向傾斜は計測されていないので明らかではないが、非稼行坑道内の大多数の亀裂の走向傾斜とほぼ同一のものもあったと推定される。山の斜面は地表に近いほど重力の法則で斜面下部(最大傾斜方向)に移動しようという力が働くと考えられるから、右亜炭層の割れ目は、長い間こうした力が加わった結果形成されたものと推認される。一方、<証拠>を総合すると、非稼行坑道のある斜面の等高線の向きはほぼ北六五度東であることが認められ、非稼行坑道内に亀裂が発生するとすれば、その走向は同じく北六五度東になると推定されるから、右認定の非稼行坑道内の亀裂は、地下採掘による沈下によって斜面方向に移動しようとしてできたものと推認される。そうすると、非稼行坑道内の亀裂の走向が亜炭層の割れ目の走向と同一であるということだけでは、亜炭採掘の影響を否定することはできず、また亀裂の生成を自然の営力だけとすることもできないというべきである。
さらに、被告国は、非稼行坑道内の亀裂が地表に近い部分のみに生じていることからみると、その自然の営力の中でも本来の地質の要因ではなく、昭和四九年以前の地すべり活動によって生じたものと考えるのが自然である旨主張する。
しかし、前記認定のとおり、非稼行坑道内の亀裂は、坑口から一七メートル付近から二二メートル付近のように大きな開口亀裂の見られない所もあるが、その奥にも亀裂があり、特に坑口から二六メートル付近には大きな亀裂があって、地表に近い部分のみに生じているわけではないばかりでなく、仮に、非稼行坑道内の亀裂が古い地すべり活動によって生じたものであるならば、このような亀裂が他の場所でも発生していなければならないと考えられるところ、右認定のとおり、上層二坑道の地表に近い部分の壁面には、若干のヘアクラックは認められるが、非稼行坑道で見られた亀裂は認められなかったことも併せ考えると、前述のとおり、非稼行坑道内の亀裂が自然の営力によって採炭以前に生じていた地すべり地塊内の亀裂とは認められないというべきである。
以上のとおりであるから、前記(二)及び(三)で検討したところも併せ考えると、非稼行坑道内の亀裂は、その下位約九ないし十数メートルで行われた亜炭採掘がもたらす地中沈下によって発生した亀裂であり、採掘空洞上部に生ずる免圧圏内の岩石破壊を示す亀裂であると推認される。
(3) 稼行炭層上部のひずみ
<証拠>によると、ボーリング調査の際、ひずみ計を設置してすべり面の調査をしたところ、VB―七では地表から一五メートル(標高約一二二メートル)の月平均歪量が二五四〇、VB―六では地表から九メートル(標高約一四九メートル)の月平均歪量が七二〇と観測され、いずれも地形・地質的にもすべり面が存在する可能性が大きな準確定変動と判定されたこと、VB―七で右ひずみが観測されたすぐ下位(地表から16.25〜17.90メートルの間)には、上層坑道の空洞が残っているが、その下位にはひずみが観測されていないこと、以上の事実が認められる。
本件崩壊地はその後斜面安定工事が行われたため、崩壊等が発生していないから、右ひずみが将来そこをすべり面として地すべりに発展する可能性のあるすべり面のひずみをとらえたものであったかどうかは明らかではないが、VB―七の右ひずみのすぐ下位には上層坑道の空洞が残っており、その下位にはひずみが観測されないことに、前記(二)、(三)及び(四)(1)に検討したところも、併せ考えると、右ひずみは、亜炭採掘後の空洞が上位地盤を沈下させ、免圧圏内の岩盤にゆるみを生じさせたことによるひずみであると推認される。
(4) 山頂直下の亀裂と風化の促進
<証拠>によれば、原告小田島留義は、昭和四二年ころ、松山山頂直下の北斜面に東西方向に走る長さ七〜八メートル、西側の方がやや口の開きが大きい亀裂(以下、「本件亀裂」と言う。)が発生していることに気付いたこと、原告大竹清も、そのころ本件亀裂の発生に気付いたこと、本件亀裂は、本件崩壊発生の前年あたりには、西側の割れ目の幅が大人の太股くらいであり、北側が五〜六寸下がって段差が付いていたこと、本件崩壊直後の山頂付近の滑落崖西側には、本件亀裂の跡と認められる亀裂が幅が広くなった状態で一部残っていた(そのおおよその位置は、別図第二松山平面図のD―E線のとおりである。)が、その後の斜面安定工事等で消滅してしまったこと、以上の事実が認められる。
証人谷正巳は、本件亀裂発生の翌日と翌々日に現地踏査をしたが、そのような亀裂はなく、本件崩壊の約一年前に撮影された航空写真を立体鏡で見ても、被告国が本件崩壊前から存在していたことを認めている崩壊地の東外側の旧亀裂(以下、「旧亀裂」という。)は確認できたが、本件亀裂は確認できない旨供述している。
しかしながら、松野操平が本件亀裂を撮影した右甲第一一号証の写真一八(その拡大写真が、証人松野操平の第一回証人調書に添付されている。)と、細谷順一が本件崩壊の翌日に撮影した前掲乙第四八号証の写真五及び一四を拡大鏡を使用して仔細に対照してみると、松野操平の写真に見られる幹が裂け倒れかかった木が細谷順一の右写真にも写っている(外枠を除き、写真五では右端から約3.4ミリメートル、写真一四では右端から約5.1ミリメートル付近に、木の根本が写っている。)ことが認められる。細谷順一の写真では、土の崩れ具合か積雪のため明確に亀裂と分かるようなものではないが、倒木の根本が落ち込んでいることは十分に窺われ、雪が消えれば、亀裂かどうか判然となったはずである。
次に、確かに、<証拠>によると、、昭和四八年五月六日撮影の航空写真には旧亀裂の存在は確認できるが、本件亀裂の存在は確認できない。しかし、本件亀裂は、当時大人の太股くらいであるから、せいぜい幅三〇センチメートルとみられるのに対し、<証拠>によると、旧亀裂の幅はその約五倍の約1.5メートルもあったことが認められ、この違いが航空写真の判読の差となったものと考えられるのであって、航空写真で確認できないからといって本件亀裂の存在を否定することはできないというべきである。
したがって、証人谷正巳の右供述や乙第四九号証の一ないし三によっては、右認定を左右することはできない。
また、<証拠>によると、昭和四六年一一月三日に高度五〇〇〇メートルから撮影した航空写真を、立体鏡で見ると、本件亀裂が確認できないことが認められる。しかし、右各証拠によると、同時に旧亀裂も確認できなかったことが認められ、旧亀裂は昭和四八年五月の航空写真で確認できるのであり、旧亀裂が昭和四六年一一月から同四八年五月までの間に発生したことを窺うに足りる証拠はなく、それ以前に既に発生していたものと推測されるから、右事実は、昭和四六年の航空写真では大きな旧亀裂さえも確認できなかったことを意味するというべきである。
他に本件亀裂の存在を左右するに足りる証拠はない。
<証拠>に、前記(二)、(三)及び(四)(1)ないし(3)に検討したところも、併せ考えると、本件亀裂は、原告らの主張するように、亜炭採掘による沈下に伴ってヘアクラックや免圧圏内の岩盤にゆるみが生じて砂岩層を中心にブロック化され、岩盤の強度が低下するとともに、雨水や融雪水の浸透が容易になって風化が促進されるなどして、劣化した北斜面がずり下がって生じたものとみるのが相当であって、松山北斜面の風化が促進されていたことを示す事実というべきである。
<証拠>によると、山形大学の皆川信弥は、本件亀裂はただ表層部が割れて水平に移動したものであろうとみていることが認められるが、単なる自然要因だけでは何故この時期にこの部分だけに突然移動が生じたかについて説明ができないというべきである。
(5) 亀裂の発生、融雪水の浸透と崩壊
証人中川鮮の証言(第一回)中には、地中に坑道やトンネルを掘った場合、均一な地盤であれば、その採掘面の天盤部分から上位に向かって順番に沈下させる力が働くが、松山では、地山が不均一な条件になっており、粘土層や泥岩層などの不透水層は沈下させる力に対して、不透水性を保ったまま、たわみとか曲がりでその変位量を吸収するのでクラックが発生しにくいのに対し、砂岩は僅かな動きに対しても、たわみというもので消化できず、せん断面が入り無数にヘアクラックが発生する、表層に近いクリープ層や風化帯もクラックが発生しやすいので、必ずしもクラックの発生量が採掘面に近いほど多く、上にいくに従って少ないとはいえない、稼行炭層と、その上面が本件崩壊のいわゆる「すべり底面」の末端部となった不透水層(以下、「本件不透水層」という。)との間は、変位量が大きいのでより大きなクラックが発生したと思われるが、右不透水層のため滞留水はなく、崩壊前には本件不透水の上に水が溜まり、崩壊した部分は上にいくほど柔らかい物質になっているので水分を多く含んでいた旨の供述部分がある。
この点について、被告国は、本件不透水層の上位にも、泥岩、シルト岩や亜炭層で形成された不透水層が存在し、それら不透水層の間の透水層には被圧性の高い地下水があるが、中川証言によれば、本件不透水層の上位の地盤には、不透水層となり得る層にもかなり広範囲に無数のクラックが存在したことになり、右被圧性の高い地下水の存在と明らかに矛盾する旨主張する。
<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。
東北大学の河上房義らは、松山の前記土質試験の結果に基づいて、崩壊源となった上部斜面に発生したと想定される円弧すべりについて、安定計算を行った結果、
① 地下水を考慮しない場合
すべり面に対する安全率は、1.37
② 砂(岩)層標高一五二メートル以上に降雨、融雪水が地表面まで滞留しかつ斜面に並行に浸透水が流下する場合
すべり面に対する安全率は、1.19
③ 被圧水圧が標高一四二メートル以下の部分に作用する場合
安全率を一とすると、被圧水圧は、一平方メートルあたり、5.2トン
となったことから、水頭にして五〜六メートルの被圧水圧が作用しなければ、想定された円弧ではすべり破壊が発生しないとの結論に達した。さらに、前記標高約一五八メートルのボーリング地点(VB―六)の深度約一八、二四及び二九メートル付近に地下水があり、不透水層を掘り進むと地下水が上昇する傾向を示していると報告している。右地下水のうち、上位の二つは、本件不透水層よりも上位の不透水層に滞留した地下水と推定される。
右認定の事実によれば、本件崩壊当時、本件不透水層の上位の不透水層にも被圧性の高い地下水が存在したであろうことが推定される。
一方、<証拠>を総合すると、本件不透水層の上位にもいくつかの粘土層、泥岩、シルト岩、亜炭層などの不透水層となり得る層があるが、本件不透水層と比較すると、層も薄いものが多く、風化も進んでおり、固結度や緻密さも小さく、不透水性が劣っていたものと推認される。
また、非稼行坑道の亀裂の状況を見ると、<証拠>によれば、亀裂は不透水層となり得るシルト岩にも発生していることが認められるが、前記認定のとおり、一様に満遍なく発生しているわけではなく、その大きさも大小様々である。
そうすると、被告国の主張するように、稼行炭層の上位地盤には、不透水層となり得る層にも満遍なく一様に無数のクラックが発生したわけではなく、部分的にはクラックが発生していない領域もあったと推認され、右中川証言のとおり、砂岩よりも塑性の大きい泥岩等の不透水層の方がクラックの発生が少なかったと考えられるので、本件不透水層の上位にある不透水層となり得る層の中には、不透水性を失ったものや、部分的に不透水性を失ったものもあったものと推認されるが、部分的には前記被圧性の高い地下水が存在する程度の不透水性を維持していたものであったものと推認される。したがって、必ずしも右中川証言のいうクラックの存在と被圧性の高い地下水の存在とが矛盾するとはいえない。
また、被告国は、坑内の落盤が上位地盤への亀裂や断層を生じさせたのなら、坑道が地下水排水、滞水層・すべり面形成阻止という地すべり防止の重要な役割を果たすことを期待できる旨主張する。
しかし、前記認定のとおり、坑内は、沈下ばかりでなく、落盤、圧壊している部分もあり、それに伴い本件不透水層も一部破壊されている部分もあるものと推認されるが、全体的にみれば、不透水性を保っていたため、浸透水は本件不透水層で止まり、水抜きの効果はなかったものと推認される。
さらに、被告国は、地表からすべり面までヘアクラックにより上位地盤に満遍なく融雪水が浸透したのであれば、上位地盤全体がほぼ均等に多量の水を含み、過度に軟弱化していたはずで、そうすると、地表の立木を載せたまま滑落し滑走した土塊はそれ程乱されず多量の水を含んでいなかったという本件崩壊の運動形態を説明できない旨主張する。
確かに、土砂流が到達した北側前線部(舌端部)には、山頂から中腹にかけて生立していた水楢、朴の木、万作等の広葉樹が一部は直立したままの状態で存在していたことは、前記認定のとおりである。
しかし、右のとおり、本件不透水層の上位地盤全体がほぼ均等に水を含んでいたわけではなく、本件不透水層のほかにも被圧性の高い地下水が存在する所もあったものと推認されるばかりでなく、<証拠>によると、本件崩壊による土砂流は、山麓平地に残っていた三〇〜五〇センチメートルの積雪上を滑走したため、前記のとおりの高速で相当先まで到達しているが、かなりの部分はばらばらになって流動し滑落していることが認められるので、右中川証言によっては、本件崩壊の運動形態を説明できないとはいえない。さらに、<証拠>によると、山形大学の遠藤治郎らが本件崩壊の一週間後に採取した崩落土や崩落移動した土には、なお相当の水分が含まれていたことが認められ、前記認定のとおり、記録的な豪雪の融雪水が急速かつ大量に供給されたことも、併せ考えると、崩壊した土砂にはかなりの水分が含まれていたことは明らかである。
そして、<証拠>に、前記(二)、(三)及び(四)(1)ないし(4)に検討したところも、併せ考えると、昭和四九年当時、亜炭採掘面の上位地盤は凝灰質砂岩を中心として著しく粘着力が低下していたところに、右のとおり記録的な豪雪の融雪水が急速かつ大量に供給されたが、採掘面のすぐ上位には不透水性の大きい本件不透水層が存在し、そこより下位への浸透が緩慢であったため、その上位の砂岩層への滞留が大きくなって、浸透水を被圧させ間隙水圧が増大することとなり、ここに至って泥岩の一部も粘着力が低下し、内部摩擦角も失うことになって、せん断抵抗力が大きく減少し、併せて上位地盤は融雪水の浸透によってその重量が増加し、見掛け比重が大きくなって極度に不安定化し、ついに崩壊するに至ったものと推認される。
6 結論
以上1ないし5で検討してきたところを、総合判断すると、本件崩壊の原因については、松山の地中を亜炭採掘のため掘削したことを抜きにして考えることはできないものというべきであって、亜炭採掘と崩壊との因果関係は直接的なものではないものの、亜炭採掘による沈下に伴って上位地盤にヘアクラック(亀裂)が発生し、それが次第に発達して、雨水や融雪水の浸透が容易になって風化が促進され、土質の強度が低下し、粘着力も低下しているところへ、昭和四九年春の記録的な豪雪の融雪水が急速かつ大量に供給された結果、たまたま採掘面のすぐ上位に不透水性の大きい不透水層が存在し、そこより下位への浸透が緩慢であったため、その上位の砂岩層への滞留が大きくなって、間隙水圧が増大することとなり、さらに山体が劣化し、融雪水の浸透で重量が増加し、極度に不安定化し、ついに崩壊するに至ったものと推認するのが相当である。
したがって、本件崩壊は、松山の中腹を亜炭採掘のため掘削したことに起因して惹起されたものというべきである。
三被告国の責任の存否
そこで、次に、被告国の責任の存否について、順次判断する。
1 被告国の鉱害賠償責任
原告らは、本件災害が被告国によってもたらされた制度的かつ構造的な災害であって、被告国は、鉱害という危険の発生をあらかじめ熟知していながらこれを認容して、鉱業権を設定して実施させ、鉱害を惹起させる鉱業を国の積極的な政策として強権的に推進してきたのであるから、この鉱害によって生じた損害について自ら直接賠償の責を負うべきであり、このことは、石炭鉱害賠償規定からも明らかである旨主張するので、以下、右主張について検討する。
(一) 無過失賠償制度
鉱業法一〇九条は、「鉱物の掘採のための土地の掘さく、鉱水若しくは廃水の放流、捨石若しくは鉱さいのたい積又は鉱煙の排出によって他人に損害を与えたときは、損害の発生の時における当該鉱区の鉱業権者が、損害の発生の時既に鉱業権が消滅しているときは、鉱業権の消滅の時における当該鉱区の鉱業権者が、その損害を賠償する責に任ずる」と規定しており、昭和一四年の旧鉱業法の改正によって創設された鉱業権者の無過失賠償規定を基本的にそのまま承継したものである。
右改正前は、原告らの主張するように、鉱業権者の賠償義務が否定されていたわけではなく、民法の不法行為に関する規定に基づき、鉱害の原因となった採掘を行った者が賠償義務を負っていたものと解される。ところが、民法は、いわゆる過失責任主義に立っているので、被害者は、鉱業経営における過失を挙証しなければならず、鉱害がある程度鉱業経営に伴う不可避の災害である以上、それは極めて困難であるばかりでなく、鉱害は、単に鉱業技術の良否に関係するだけでなく、その地域の地形・地質・気象等の良否などとも関係するので鉱害そのものを原因として生じた損害の範囲及び程度を確定することは、極めて困難で、この点でも、被害者の損害賠償請求は困難であった。鉱害については無過失責任を認めるべきであるとの学説が次第に有力となり、他方、現実の問題としては、法律的な基準がないまま被害者と鉱業権者の力関係で解決をみるなど好ましくない事態も稀ではなかった。
このような事情から立法化されたものであり、また、一律に損害が発生した時の鉱業権者に賠償責任を負わせたのは、損害の原因がいずれの時期の作業によるものかを正確に確定することは極めて困難であるため、被害者の保護を図るためであると解される。
右改正により、賠償金額のための予納供託制度も創設されたが、これは、鉱害が徐々に発生し、作業後相当の日時の経過後に顕著な損害となって現れるのが通例であり、その時になって一時的に多額の賠償をすることは、鉱業権者にとっても容易なことではなく、その時には稼業を停止している場合もあり、実際問題として損害賠償の実行が困難となる場合もあるので、この不都合を避けるために「担保の供託」の制度を創設したものと解される。
(二) プール資金制度
政府が、昭和二三年四月九日「九州山口地方における鉱害対策」の閣議決定をもって、一部の鉱害について原状復旧を行うこととし、単価中に復旧費を折り込み、これを配炭公団にプールして鉱害復旧工事施行の財源とし、この財源と国庫補助金、地方公共団体の負担金とを併せて復旧工事を実施することとするプール資金制度を創設したことは、当裁判所に顕著な事実であるが、これは、右地方における鉱害の重大性と石炭鉱業の経営事情に鑑み、食糧の増産等の公益目的のため、国民経済上復旧を妥当とするものを復旧し、国はその復旧費について、一般災害復旧に準じ、復旧費の一部を国庫から補助する制度を創設したものであって、厳しい環境の中で公益的観点から鉱害復旧のため国費の投入を行うこととしたものと解される。
したがって、プール資金制度は、一般災害復旧に準じ復旧費の一部を国庫から補助する制度であって、原告らの主張するように、国が初めて鉱害について責任をとるに至ったものであるとはいえない。
(三) 特鉱法(特別鉱害復旧臨時措置法)
昭和二四年に配炭公団が廃止され、前記プール資金制度が消滅することとなったが、この制度の実質的継続を要請する強い要望があったため、政府としても鉱害問題の社会的重大性を認め、臨時立法の制定を考慮し、昭和二五年特鉱法が制定されたことは、当裁判所に顕著な事実である。
特鉱法は、戦時中の国家的要請に基づく強行出炭により発生した鉱害のうち、公共の福祉を確保し、併せて石炭鉱業の健全な発達を期するために急速かつ計画的に復旧工事を施行する必要があるものを特別鉱害として認定し、その復旧費として、①国の公共事業費又は行政部費、②地方公共団体の負担金、③鉱業権者が納付する一定の納付金などから成る特別会計、などからの支出を認めたものである。そのうち、国の公共事業費又は行政部費の占める割合は、極めて大きい。そして、この法律の規定により復旧工事が完了したときは、当該鉱業権者の鉱業法の規定による鉱害賠償責任は、その効用が回復した限度において消滅したものとみなされる。
原告らは、特鉱法は、国が鉱業権者に代わって直接鉱害賠償の責を負うことが実定法上確認されたものであると主張するが、特別鉱害については、公共の福祉を確保するため、従前の鉱業権者と被害者という私人関係の域を脱し、鉱業権者と国家公共団体の協力による国土の復旧という公的問題とされるに至ったので、国が政策的見地から国費の支出を認めたものであって、国に損害賠償責任があるからではないと解される。このことは、国が補助金を支出するのは公共物件に限られており、家屋等の非公共物件の工事に要する費用はすべて特別鉱害に係る鉱業権者の納付金から成る特別会計が負担していることからも明らかである。
(四) 臨鉱法(臨時石炭鉱害復旧法)
昭和二五年特鉱法の成立に際し、衆議院通産委員会が、既存鉱害の復旧とこれに対する抜本塞源的措置についても万遺憾なきを期すべき旨の決議をし、また現行鉱業法の審議にあたり、鉱害の賠償については金銭賠償を原則とする政府原案をそのまま承認したが、その際、政府は国庫の負担において鉱害地の原状回復を断行すべく速やかに委員会を設置して必要なる法律を立案すべきである旨の付帯決議をし、右決議を受けて、政府が、石炭鉱害地復旧対策審議会を設置し、同審議会が法案要綱を作成し、昭和二七年八月臨鉱法が成立したことは、当裁判所に顕著な事実である。
臨鉱法は、「国土の有効な利用及び保全並びに民生の安定を図り、あわせて石炭鉱業及び亜炭鉱業の健全な発達に資するため、鉱害を計画的に復旧することを目的とする」(同法一条)ものであって、鉱害復旧事業団という特別法人を設立し、同事業団は、復旧基本計画の作成、鉱業権者の納付金及び受益者の負担金の徴収、一定の場合における復旧工事の施行等の業務を行う。復旧費は、賠償義務者の納付金、受益者負担金、地方公共団体及び事業団の負担金、国及び都道府県の補助金によって賄われる。
ところで、鉱業法による鉱業権者の賠償義務は、金銭賠償を原則とし、原状回復は、例外的に、賠償義務者の申立てがあり裁判所が適当であると認めた場合のほかは、被害者の請求があり賠償金額に比して著しく多額の費用を要しない場合に限られる。そうすると、鉱業権者が本来負担すべき金銭賠償額を超える部分の復旧費を国が補助する場合であれば、国の補助は、鉱業権者の賠償義務とは係わりがない。
ところで、国の補助は、公共土木等については四〇パーセント、農地及び農業用施設については53.95パーセントである。鉱業権者が無資力、不存在の場合は、すべて国、都道府県の負担であり、農地及び農業用施設について生じた鉱害は、復旧工事完了後、一定の時に消滅したものとみなされ、鉱業権者の賠償義務も消滅することとなる。
原告らは、臨鉱法による国の補助は、鉱業権者の賠償義務を代替しているものであり、鉱害被害に対し、国固有の賠償義務の履行としての性格を持つものであると主張する。
しかし、臨鉱法に基づく鉱害復旧に国が補助金を支出するのは、累積した鉱害の復旧が国土の有効な利用及び保全並びに民生の安定を図る見地から必要であるためであって、復旧費のうち損害相当額を納付金として負担するのは、賠償義務を負う鉱業権者であり、国は、復旧工事を行うに際し、鉱業権者の納付金で不足する部分を、右の公共的見地から補助金として支出するものであって、国が賠償義務を履行するものではないと解される。
このことは、同法による復旧の対象からも明らかである。
すなわち、同法の復旧の対象は、道路、水道等の極めて公共性の高い公共施設を原則とし、このほかに農地(農業用施設を含む。以下同じ。)と家屋等を認めている。これは、農地については食糧増産という公共的要請から、また、家屋等については、家屋に関する鉱害が被害者の生活に直接深刻な影響を与え、民生安定という観点から重大な問題であること、また、鉱害の総合的な復旧を行うためには農地及び公共施設と併せて家屋を復旧することが不可欠であるとの理由から、農地と家屋を同法の復旧対象に加えたものである。
(五) 鉱害賠償責任のまとめ
以上のとおり、鉱害賠償及び鉱害復旧に関する法理からは、賠償義務を負う鉱業権者に代わって、被告国が直接損害賠償義務を負うとの結論は導き出せないといわざるを得ない。また、後に検討するように、仙台通産局長らの被告国の機関が本件崩壊、ひいては本件災害の発生の危険を予見できなかったばかりでなく、本件全証拠によるも、被告国が、松山炭鉱を国の積極的な政策として強権的に推進してきたことを認めるに足りない。
したがって、被告国は、本件災害について、鉱害賠償責任を負う余地はないといわざるを得ない。
2 被告国の営造物責任
(一) 土砂崩壊防備保安林の所在
原告らは、まず、本件崩壊地一体のほとんどは国有林であり、昭和一六年五月土砂崩壊防備保安林として指定された旨主張する。
確かに、<証拠>によれば、山形地方法務局新庄支局備付けの字限図には、本件崩壊地のほぼ中央に字限図上の面積で約六一六一平方メートルの「官有地」と表示された部分が存在することが認められる。
しかし、<証拠>によると、次の事実が認められる。
(1) 本件崩壊地には、山頂付近にわずかに保安林に指定されていない国有林があるが、右字限図で「官有地」と表示された右部分は、かつては国有林の部分林であったものの、既に大正九年八月村井六助に売り払われ、「字赤松山一七三〇番一山林七反六畝七歩」として同人のため所有権移転登記が経由され、その後所有権の移転があり、本件事故当時は国分伊勢蔵の所有であった。なお、山形地方法務局新庄支局には、右字限図のほか、秋田大林区署(現秋田営林局)が右所有権移転登記の嘱託の際、同支局に提出した図面が、「大蔵村大字赤松払下地図」として保管されており、大蔵村保管の土地台帳付属地図にも右部分が「字赤松山一七三〇ノ一山林三七」と表示されている。
(2) 昭和一六年五月九日民有地である大蔵村大字赤松字上ノ坂ノ上一七一九番、五九〇番の一二の山林が土砂崩壊防備保安林として指定されたが、本件崩壊地の中腹の東側側端部がわずかに右保安林の一部に入っている。
以上の事実が認められ、右事実によると、本件崩壊地には、山頂付近にわずかに保安林に指定されていない国有林があるほか、中腹の東側側端部にわずかに土砂崩壊防備保安林があるだけであるというべきである。
(二) 保安林と公の営造物
国賠法二条一項にいう「公の営造物」とは、国又は公共団体により公の目的に供される有体物及び物的設備を指称し、公の目的に供される物とは、一般国民に使用される公共用物に限らず、行政主体自身がもっぱら使用する公共物も含まれ、国又は公共団体が所有権、賃借権その他の権限に基づいて管理している場合はもとより、事実上の管理をしている場合も含まれると解される(最高裁昭和五九年一一月二九日第一小法廷判決・民集三八巻一一号一二六〇頁参照)。
そして、保安林は、災害の防止、水源のかん養その他の公共の目的を達成するため、農林大臣又は都道府県知事によって指定され、森林法上特定の制限ないし義務を課せられる森林であって、この制限ないし義務は、保安林の目的達成のため必要最小限度のものでなければならないとされている(森林法三三条五項)から、保安林は、森林所有者等がその権限に基づき森林の育成並びに使用収益を行うことを前提としながら、適切な森林施業を遵守させ、もって森林の公益的機能を確保し公共の目的達成を図ろうとするものであって、もとより、保安林として指定された山林を一般国民の使用に供するものではなく、行政主体が、その所有権や地上権、賃借権のような直接の支配権に基づき育成管理するものではない。
そこで、さらに、前記保安林が被告国の事実上管理するものであったかどうかについて検討するに、弁論の全趣旨によると、前記保安林指定後本件崩壊までの間に、農林大臣が、土砂の崩壊の防備の目的で保安施設地区として指定(森林法四一条一項)したこともなく、「造林、森林土木事業その他の保安施設事業」の実施や、「保安施設事業に係る施設の維持管理行為」(いずれも同法四五条一項)を行ったこともなかったことが明らかである。ここにいう事実上の管理とは、国の当該営造物に対する管理責任を基礎づける要件であるから、災害発生時において、当該営造物が国の管理下にあったと認められることが必要であり、継続的な管理行為があるか、あるいはそのような管理行為が予定されているものであることを要すると解するのが相当である。単に土砂崩壊防備保安林に指定されただけで、被告国の機関がそれ以上の継続的な管理行為等をしたことが認められない本件においては、ここにいう事実上の管理はなかったものというべきである。
そうすると、本件崩壊地の東側側端部に存在する前記土砂崩壊防備保安林は、国賠法二条一項にいう公の営造物には当たらないといわざるを得ない。
(三) 営造物責任のまとめ
したがって、右保安林が公の営造物であることを前提として被告国に営造物責任があるとの原告らの主張は、その余の点について判断するまでもなく、採用できない。
3 被告国の鉱業権設定の許可等の責任
(一) 松山炭鉱の鉱業権設定の許可と施業案の認可
仙台通産局長が、昭和二九年八月溝口トキ外一名に対し、松山炭鉱の鉱業権設定を許可し、次いで、同人に対し、同三二年七月四日、同三四年一一月五日、同三六年一一月六日、同四二年三月二七日、同四三年一一月一九日それぞれ同炭鉱の施業案を認可したことは、原告らと被告国との間で争いがない。
原告らは、被告国の公権力の行使にあたる公務員である仙台通産局長は、右鉱業権設定を許可した当時、ないしは右各施業案を認可した当時、松山中腹の地中を亜炭採掘のため掘削すれば、松山北斜面に本件のような大規模な斜面崩壊が発生する危険があることを知っていたか、容易に知り得たのに、右鉱業権設定を許可して松山中腹の地中を掘削させた違法があり、又は、右各施業案を認可して保安を無視した施業をさせた違法がある旨主張するので、検討する。
(二) 通産局長の鉱業法に基づく権限と責務
鉱業法は、「国は、まだ掘採されない鉱物について、これを掘採し、及び取得する権利を賦与する権能を有する」(二条)と定め、通産局長に、鉱業権設定の許可及び施業案の認可の各権限を与え(二一条一項、六三条二項)、「公共の用に供する施設若しくはこれに準ずる施設を破壊し、……公共の福祉に反すると認めるときは、……その出願を許可してはならない。」(三五条)と規定している。
そして、同法六四条によって、その近傍における鉱物の掘採が制限される物には、「鉄道、軌道、道路、水道、……学校、病院、図書館及びその他の公共の用に供する施設」と並べて、「建物」が掲げられ、この建物については、所有権の帰属の如何又は公共の用に供されていると否とにかかわらず、適用されると解されることに照らすと、同法三五条にいう「公共の用に供する施設若しくはこれに準ずる施設」の中には、「建物」が含まれるものと解するのが相当である。
もっとも、鉱業の実施によって不利益を招来しても、これによって得られる利益が大きいときは、公共の福祉に適するものとして鉱業権設定が許可されるべき場合もあり、果たして公共の福祉に適するか否かの認定は、結局、通産局長の判断によることになるが、その認定は自由裁量によるものではなく客観的な基準によって行われる覊束された処分と解される。
そうすると、通産局長が、鉱業権設定の許可当時、その鉱業の実施により、多くの建物が破壊され、まして人命にまで被害が及ぶであろうことを予見し、又は予見することができたとすれば、その鉱業権の設定を許可すべきではないことは明らかというべきであり、その鉱業の実施の結果、そのような被害が発生したとすれば、その鉱業権設定の許可は、被害者に対する関係においても、その行為規範としての職務上の義務に違反した違法なものというべきである。
また、施業案は、鉱業実施の基本計画であり、これにより鉱物資源の保護、合理的開発並びに危害の防止を行おうとするものであり、したがって、施業案には、探鉱又は採鉱、運搬、選鉱、製錬のほか、操業上の危害予防、鉱害防止のための施設に関する事項の記載が要求されている(鉱業法施行規則二七条)。
そうすると、通産局長が、施業案の認可当時、その認可にかかる鉱業の実施により、多くの建物が破壊され、まして人命にまで被害が及ぶであろうことを予見し、又は予見することができたとすれば、その施業案を認可すべきではなかったこともまた明らかというべきであり、その施業案による鉱業の実施の結果、そのような被害が発生したとすれば、その施業案の認可は、被害者に対する関係においても、その行為規範としての職務上の義務に違反した違法なものというべきである。
(三) 仙台通産局長の義務違反の有無
右(二)に検討したところによると、原告らの主張するように、仙台通産局長が、前記鉱業権設定を許可した当時、ないしは前記各施業案の認可当時、松山中腹の地中を亜炭採掘のため掘削すれば、松山北斜面に本件のような大規模な斜面崩壊が発生する危険のあることを知っていたか、知り得たのにかかわらず、右鉱業権設定を許可して松山中腹の地中を掘削させ、又は、右施業案を認可して保安を無視した施業をさせたとすれば、同局長の行為規範としての職務上の義務に違反した違法なものというべきである。
そこで、同局長が、右鉱業権設定の許可当時、ないし右各施業案の認可当時、右のような予見ないし予見可能性があったか否かについて、検討するに、同局長に右のような予見があったことを認めるに足りる証拠はないので、以下、予見可能性について考察する。
(1) 予見可能性の判断の基準時及び判断の基礎となる事実についての資料収集手段
仙台通産局長が、本件のような大規模な斜面崩壊の危険があることを予見できたかどうかの判断の基礎となる事実は、右鉱業権設定の許可当時ないしは右各施業案の認可当時に同局長が認識可能であったものに限られ、また、違法性では当該公務員の行為時の行為規範としての職務上の義務に違反したか否かが問題とされるのであるから、その公務員が通常有すべき知識経験を基準とすべきであると解される(最高裁昭和五八年一〇月二〇日第一小法廷判決・民集三七巻八号一一四八頁参照)。
さらに、仙台通産局長が、右鉱業権設定の許可当時ないし右各施業案の認可当時に、鉱業法あるいは鉱山保安法等に基づいて、右の予見可能性の存否の判断の基礎となる事実を知るために収集可能な資料として、次のものが考えられる。
・鉱業権設定の許可時――願書・区域図(鉱業法二一条二項)、鉱床説明書(同法二二条)、県知事及び営林局長との協議結果(同法二四条)、土地所有者の意見書(同法二五条)、設備設計書(同法二六条)
・第一回の施業案の認可時――右に掲げた物のほか、施業案(同法六三条二項)、鉱山保安監督部長との協議結果(同法六三条三項)
・第二回以降の施業案の認可時――右に掲げたものすべてのほか、さらに坑内実測図(同法施行規則五八条)、通産局長と鉱山保安監督部長は互いに連絡し合うこととされている(通達・昭和二七年一〇月一六日鉱二四四号)ので、鉱業権者の保安報告(鉱山保安法二八条、石炭鉱山保安規則六八条・三七六条の六)、保安図(同法二九条)、鉱務監督官の立入検査・質問の結果(同法三五条)、業務状況・帳簿書類等報告の徴収・立入検査の結果(鉱業法一九〇条)、鉱山労働者の申告(鉱山保安法三八条)
このほか、仙台通産局長が右各権限を行使した当時において、制度上、容易に入手可能であった一般的な諸研究成果や統計資料等が考えられる。
なお、後に検討するとおり、現行鉱業法制が鉱業特許主義を採った結果、鉱害(亜炭採掘のため掘削したことにより崩壊し被害が発生したとすれば、それが鉱害であることは明かである。)の防止を含む鉱山保安の最終責任者は鉱業権者と解されるのであるから、国の機関による監督権限の行使は、鉱業権者による鉱山保安の確保活動を援助・助長するとともに不適切なものを排除するという範囲にとどまるものである。したがって、通産局長は、収集可能な右各資料に基づいて、鉱業権設定の許否、施業案の認可の許否を判断すれば足りるものというべきである。
(2) 仙台通産局長の鉱業権設定許可及び施業案認可の判断の経緯
<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。
仙台通産局長は、昭和二八年二月三日溝口トキ外一名の採掘権出願を受理し、鉱業法二四条に基づき同二九年二月四日山形県知事及び秋田営林局長に対し、公益上の支障の有無を確認するため協議を行い、同年三月二日秋田営林局長から、同月九日山形県知事からいずれも特に支障がない旨の回答を得、これを踏まえて願書、区域図、鉱床説明図の内容を検討し、また、試掘権時代の稼行実績、付近近傍の他の炭鉱の稼行状況を勘案した上、次のとおり、鉱業法三五条の不許可事由に該当しないものとして昭和二九年七月一〇日鉱業権設定を許可した。
すなわち、「公共の用に供する施設若しくはこれに準ずる施設を破壊し、……公共の福祉に反する」か否かについては、出願地を管轄し、地元の状況を了知している山形県知事及び出願地に含まれる国有林の管轄庁である秋田営林局長の右協議の回答によって、出願地およびその付近には、鉱業法六四条に掲げている公共の用にする施設、物件はないと判断し、「農業、林業若しくはその他の産業の利益を損じ」るか否かについては、採掘が坑内掘りであるため、地表への影響は特になく、地表を利用するこれら他産業の利益を損することはないものと判断した。
これに続いて昭和三一年四月六日施業案の認可申請が出され、仙台通産局長は、鉱業法六三条三項に基づき仙台鉱山保安監督部長と協議し、かつ施業案の内容を検討した上、同三二年七月四日これを認可した。その後も採炭の進行とともに改めて施業案の認可申請が出され、同局長は、その都度同部長と協議し、かつ、その内容を検討した上、前記のとおり、四回にわたってそれぞれ認可した。昭和三四年の施業案以降全面的に採用された前進式昇向階段払法は、松山炭鉱に隣接する赤松炭鉱、烏川炭鉱のほか、この地域の多数の亜炭鉱山で採用されていたもので、採炭時に出る掘進file_33.jpg、透かしfile_34.jpgを搬出することなく、これを全量採炭跡に充填する方法であって、一般的に落盤防止、沈下防止に役立つものであった。また、これらの炭鉱で二層採掘を行ったものは多く、松山炭鉱が特別の事例ではなかった。さらに、松山炭鉱の各施業案では、保安炭柱を存置することになっており、仙台通産局長が保安炭柱の取り払いを容認したことはない。
以上の事実が認められ、右事実に、後記認定のとおり、仙台鉱山保安監督部長や鉱務監督官らにおいても、本件崩壊、ひいては本件災害が発生する危険があることを予見できなかったことも併せ考えると、仙台通産局長が、松山炭鉱の鉱業権設定の許可当時、ないしは施業案の認可当時、その職務上入手した資料に基づいては、右のような危険を予見できなかったことはやむをえないというべきである。
そこで、さらに、同局長が、制度上、容易に入手可能であった一般的な研究成果や統計資料等について検討する。
(3) 石炭採掘に起因して土砂災害が発生するとの見解について
原告らは、まず、地下の石炭を採掘すると、地表の沈下・陥没等の地盤変形や山地の崩壊現象が発生することが九州の北松地方の事例で既に知られていた旨主張するが、前記二5(二)(3)に認定したとおり、昭和二七年に右地方の亀裂、地すべりを調査した九州大学の野田光雄は、一三箇所のうち一箇所だけについて、同じく同年に調査した農林省技官小貫義男は、二〇箇所のうち三箇所だけについて、石炭採掘によるものと判定したが、他のものは、自然現象によるもので鉱害ではないと判定しており、鉱害によるものとされたうちの一部については、翌年に採炭との関係について否定的見解も示されているばかりか、昭和三〇年には、小出博によって、長崎・佐賀両県の地すべりと石炭採掘との関係を明確に否定する見解が示され、昭和四三年に至っており、一方、通産省の鉱害認定科学調査では、この間に、鷲尾岳地すべりは鉱害ではないと認定され、長崎県樽川内地域及び調川地域の各地すべりと、同県多久市の亀裂、同県世知原町の地すべりの前兆たる亀裂が石炭採掘によるものと認定されただけである。
<証拠>によると、我が国の石炭鉱山は、藩営時代からの歴史を有するものもあり、昭和二七年には、全国で一〇四七鉱山にも達したことが認められ、このような長い歴史をもつ数多くの石炭鉱山があったことに照らすと、右のように石炭採掘によるものと認定された地すべり、亀裂は、極めて例外的なものにすぎなかったというべきである。
また、<証拠>によると、石炭鉱山では、炭層中に長い切羽面を作って多数の人員を配置し、集約的に採炭する長壁式採炭法が採用されることが多く、昭和二七年の統計では、全国出炭量の約五五パーセントは長壁式によるもので、その緩傾斜層の切羽長は平均六〇〜七〇メートル、急傾斜層では約五〇メートルとなっており、松山炭鉱の前進式昇向階段払と比べると、長壁式採炭法は相当大規模なものであることが認められるので、石炭採掘による事例を、直ちに亜炭採掘に当てはめることもできないというべきである。
さらに、<証拠>によると、昭和二五年から松山炭鉱の鉱業権設定が許可された同二九年までの間に、全国ではおよそ五〇〇ないし六〇〇の亜炭鉱山が稼行していたが、仙台通産局管内の亜炭鉱山の数は多く、昭和三三年ころまでは全国の半数前後を占め、同四〇年ころからはほとんどを占めていること、亜炭の生産量は、昭和一七年から同二四年ころまでの間と同三二年前後が最も多かったこと、それにもかかわらず、全国各通産局及び鉱山保安監督部に対する亜炭採掘に起因する土砂災害の報告例は皆無であり、また、これまで亜炭採掘に起因する地すべりであるとして、鉱害認定科学調査に被害の申立てをしたものはなかったことが認められる。
このような状況に照らすと、松山炭鉱の鉱業権設定が許可された昭和二九年当時から、最後の施業案が認可された同四三年ころまでの間に、亜炭採掘により、本件のような大規模な斜面崩壊が発生する危険があることは知られていなかったし、仙台通産局長らの国の機関において、制度上容易にその可能性を判断し得る資料を入手できたとは、到底いえないといわざるを得ない。
(4) 松山の地形・地質について
次に、原告らは、松山の地形・地質を認識すべきであった旨主張するが、<証拠>を総合すると、松山北斜面のような地形・地質は、我が国においては格別珍しいものではなく、また、大蔵村は山形県下でも有数の地すべり地帯であって、特に銅山川及びその支流沿いに、地すべりの危険な場所、あるいはかつて地すべりのあった場所が並んでおり、その中には、滑落崖とそれに続いて緩斜面があるというようないわゆる典型的な地すべり地形を呈しているものもあるが、松山北斜面はそのような地形を呈していなかったことが認められるので、松山北斜面の地形・地質を認識していたとしても、松山北斜面に本件のような崩壊が発生する危険があることを予見することはできなかったものというべきである。
(5) 松山における過去の崩壊の歴史等について
次に、原告らは、本件崩壊地の東側の亜炭採掘跡の上部が大正一四年と昭和一一年の四月に崩壊し、同じく東南側の亜炭採掘跡の上部が昭和二三年四月に崩壊した旨主張する。
しかしながら、<証拠>を総合すると、大正一四年と昭和一一年の四月に本件崩壊地の東側の斜面が崩壊し、昭和二三年四月には本件崩壊地のすぐ東南側の斜面が松山の山頂付近からほぼ東側に向かって崩壊したことが認められるが、次のとおり、亜炭採掘跡の上部が崩壊したものか否かについて、明らかでない。
大正一四年と昭和一一年の崩壊地については、右甲第一一号証の八頁及び一〇頁の図と、右乙第七号証、丙第一一号証の九頁及び乙第八号証の四三頁の図とを比較すると、崩壊地が一致しないし、後者の図では、昭和一一年の崩壊地の方が西側の上位斜面となっており、いずれも大正一四年の崩壊地について、原告大竹清の本人尋問調書(第二回)添付の図面とも一致しない。
一応甲第一一号証を採用するとして、証人松野操平(第二回)は、松山炭鉱の東側に隣接する赤松炭鉱は、炭質が良かった松山炭鉱と鉱区が接する西側から東に向かって採掘していったので、甲第一一号証の一〇頁の図のとおり、大正一四年に西側よりの山頂に近い方が南斜面と北斜面に分かれて崩壊し、昭和一一年にはその東側が北斜面と東斜面に分かれて崩壊したと供述しているが、前掲甲第三八及び第三九号証によると、赤松炭鉱のどの坑道がいつごろ掘削されたかは、不明であるが、その坑道名からは、松山炭鉱の鉱区境から東に向かって掘削されたものではなく、その鉱区のほぼ中央(赤松図根点のすぐ南側)から松山炭鉱との鉱区境に向かって掘削されていったことが窺われ、掘削の順序は右供述どおりではない。
また、昭和二三年の崩壊については、前掲甲第一〇号証には、この崩壊で赤松炭鉱の奥から二つまでの切羽が潰れ、またそこから流出してきた泥流が下り勾配の坑道を、坑口の方に向かって一〇〇メートル押し出してきたとの記載があり、証人松野操平の証言(第二回)にも、これに沿う供述と、したがって、赤松炭鉱がこの崩壊の決定的な役割を果たしたとの供述部分がある(同証人は、甲第一〇号証では、松山炭鉱も、この崩壊に関係があったような記載をしていたが、証言では、同炭鉱の採掘時期からみて、同炭鉱は関係ないと訂正した。)が、原告大竹清本人尋問の結果(第一回)によると、その陥没、流出は二日後くらいであることが認められ、果たして崩壊と切羽の陥没、坑道の泥流流出が一連の崩壊の過程であったか否か、二日後くらいに生じた右陥没、泥流流出が果たして崩壊の直接の原因であったか否か疑問があるといわざるを得ない。
さらに、前掲甲第三九号証によると、この坑道は赤松四坑であり、その採掘範囲は、最大にみても、その西側にある松山炭鉱の上層一坑道までであると認められ、前掲乙第二三号証によると、昭和二三年の崩壊地の最大部の西端から、松山炭鉱の上層一坑道までは水平距離で一〇〇メートル以上もあることが認められる。
そうすると、昭和二三年の崩壊が赤松炭鉱の採掘に起因するものであるとするには、崩壊の原因は、崩壊地の最上部の西端から一〇〇メートル以上も離れた下部斜面にあったということになり、上部斜面の崩壊はこの下部斜面の崩壊に引きづられたとしなければならないが、果たしてそういえるのかどうか疑問が生じる。
前述のとおり、松山の地層の走向はほぼ南北で、東に約一〇度傾斜する単斜構造となっており、<証拠>によると、松山の東斜面は、部分的には、急傾斜の所もあるが、全体的に見ると、緩やかな傾斜をなしており、地層の傾斜と方向を同じくするいわゆる「流れ盤」であって、もともと崩壊しやすい素因があったといえることが認められる。
このようにみてくると、過去三回の崩壊が、いずれも亜炭採掘に起因するものであるとする<証拠>、亜炭採掘により促進されたとする<証拠>は、にわかに採用し難い。
その上、<証拠>によると、昭和二〇年七月の仙台空襲により当時の東北地方鉱山局が全焼し、関係記録が消失してしまっていたこと、昭和二三年の崩壊については、仙台通産局は勿論、鉱山保安監督部にも報告がなかったことが認められる。
そうすると、仙台通産局長は、過去三回の崩壊を知り得なかったものというべく、仮に、昭和二三年の崩壊を知り得たとしても、前記(3)で検討したとおり、松山炭鉱の鉱業権設定が許可された昭和二九年から、最後の施業案が認可された同四三年までの間に、亜炭採掘により、本件のような大規模な斜面崩壊が発生する危険があることが、知られてはいなかったのであるから、そのことをもって、そのような予見可能性があったとすることもできないというべきである。
なお、前記松山山頂直下の亀裂のように、仙台通産局長が松山炭鉱の最後の施業案を認可した昭和四三年までに発生している地盤変動も存在するが、後記認定のとおり、それらについては、鉱山保安の監督機関である仙台鉱山保安監督部長や鉱務監督官らにおいても、知り得なかったのであるから、仙台通産局長の予見可能性の判断の基礎となり得る事実ではないというべきである。
(6) 大量の融雪水の供給について
次に、原告らは、松山一帯が、豪雪地帯で毎年春の融雪期には、大量の融雪水が地山に供給され、松山の崩壊の危険をより強めていた旨主張するが、仮に、大量の水分の供給が地すべり、崩壊の直接の引き金(誘因)になることを知っていたとしても、崩壊の原因となり得る事実を知り得なかったとすれば、それだけでは、予見可能性の基礎とはなり得ないというべきである。
(7) 土砂崩壊防備保安林の指定について
次に、原告らは、土砂崩壊防備保安林として指定されていたことをもって、崩壊の予見が可能であった旨主張する。
前記認定のとおり、本件崩壊地の中腹の東側側端部にわずかに土砂崩壊防備保安林があるが、右保安林は、林木及び地表植生その他の地被物の直接間接の作用によって、表土の流出及び林地の崩壊を防止しようとするものであると解されるから、本件崩壊のように右の作用の限界を超えた災害を防止することまで要請されていないものというべく、したがって、土砂崩壊防備保安林に指定されたからといって、直ちに本件のような崩壊を予見することが可能であったとはいえない。
以上のとおりであるから、仙台通産局長には、松山炭鉱の鉱業権設定の許可当時、ないし各施業案の認可当時、松山中腹の地中を亜炭採掘のため掘削すれば、松山北斜面に本件のような大規模な斜面崩壊が発生する危険があることについての予見可能性があったとは認めるに足りないので、同局長が職務上の義務に違反したとは認められない。
(四) 仙台通産局長の故意・過失
仙台通産局長が、前記職務上の義務に違反していることを認識しながら、松山炭鉱の鉱業権設定を許可し、ないしは各施業案を認可したことを認めるに足りる証拠はない。また、右に判断したところによれば、仙台通産局長に右職務上の義務違反があるとはいえないから、その過失も認めるに足りないというほかない。
(五) 鉱業権設定許可等の責任のまとめ
したがって、仙台通産局長がした松山炭鉱の鉱業権設定許可又は施業案認可が違法であることを前提として被告国に責任があるとの原告らの主張は、その余の点について判断するまでもなく、採用できない。
4 被告国の保安監督義務違反責任
原告らは、被告国の公権力の行使にあたる公務員である鉱務監督官は、鉱害防止のための調査・研究の義務を怠り、松山の採掘によって松山北斜面に現実化した鉱害を予見できたにもかかわらず、これを予見せず、ひいては、被告国の公権力の行使にあたる公務員である仙台鉱山保安監督部長もとるべき措置をとることなく、ついに本件災害を発生させた旨主張するので、検討する。
(一) 鉱山保安監督部長及び鉱務監督官の権限と義務
鉱山保安法は、「鉱山労働者に対する危害を防止するとともに鉱害を防止し、鉱物資源の合理的開発を図ることを目的とする」(一条)と規定し、この法律において「保安」とは、「鉱業に関する左の各号の事項をいう」(三条一項)として、四号に「鉱害の防止」を掲げ、「鉱害の防止」が「保安」に含まれることを明記している。
前述のとおり、鉱業法は、「国は、まだ掘採されない鉱物について、これを掘採し、及び取得する権利を賦与する権能を有する」(二条)と定め、鉱物の所有権を土地所有権から独立させ、政府も、個人も、鉱業権によるのでなければ、鉱物を掘採し得ないという鉱業特許主義を採っている。その結果、鉱業は、鉱業権者がその最終責任者として鉱山労働者を指揮して実施するものであるから、その反面として、鉱山保安の最終責任者も、鉱業権者であると解される。そこで、鉱山保安法は、鉱山保安上最も重要な事項を列記して、「そのため必要な措置」を講ずることを、鉱業権者の義務とし(四条)、そのほか、保安教育の実施(六条一項)など一定の行為を命じ、又は機械・器具等に関する制限(七条一項)など一定の行為を禁止し、これに反した者は処罰することとしている。右四条列記の七号には、「土地の掘さくによる鉱害の防止その他の保安」と規定し、これらの事項は鉱山の種類によって方法を異にするので、石炭鉱山保安規則が詳細に規定している。
また、鉱業権者は、鉱山保安の最終責任者であるが、鉱山保安は鉱業権者のみで確保されるものではなく、鉱業権者と鉱山労働者が一体となって保安を実施して始めて確保されるものであるから、同法は、特に、鉱山労働者は、鉱山において、保安のため必要な事項を守らなければならない(五条)と規定し、鉱山労働者もまた保安の責任を有することを明らかにしている。
ところで、鉱業は、その実施によって、鉱山労働者の生命身体に対する危害や鉱害が発生する危険を含み、鉱物資源の合理的開発を妨げる原因ともなることから、鉱山の保安の確保を鉱業権者及び鉱山労働者だけにゆだねるのは適当でなく、国としても、その確保に努めることとし、鉱山保安法は、そのため、鉱山保安監督部長、鉱山保安監督部に置かれる鉱務監督官らに、次のような、鉱山保安の監督上の諸権限を与えたものと解される。
・鉱山保安監督部長――施業案中保安に関する事項の実施監督及び変更命令権(鉱山保安法二二条)、保安規程の認可・変更命令権(同法一〇条四項)、特別採掘計画の許可・変更命令権(同法二三条一項・二項)、鉱業実施に関する保安命令権(同法二五条一項)、鉱業権消滅後における鉱害防止設備命令権(同法二六条)、保安報告徴収権(同法条)、鉱害防止措置の指揮権(石炭鉱山保安規則三七六条の四第四項)
・鉱務監督官――緊急の保安命令権(鉱山保安法三六条)、立入検査・質問権(同法三五条一項)
・通産大臣――鉱業停止命令権(同法二四条)、保安報告徴収権(同法二八条)
そして、現行鉱業法制が鉱業特許主義を採った結果、鉱害の防止を含む鉱山保安の最終責任者は鉱業権者と解されるのであるから、国の機関による右監督権限の行使は、鉱業権者による鉱山保安の確保活動を援助・助長するとともに不適切なものを排除するという範囲にとどまるものというべきである。このことは、鉱業法や鉱山保安法が、鉱業権者に対し一定の行為を禁止し又はこれを命ずることを内容ないし効果としており、国の機関が直接鉱山保安の確保のため現実的措置をとることを内容とした権限規定は全く存在しないことからも明らかであるというべきである。
したがって、鉱山保安法は、鉱山保安の確保についての責任は、第一次的には鉱業権者にあるものとしており、鉱山保安監督部長らの国の機関には直接鉱山保安の確保についての義務や責務を負わせてはいないと解するほかない。
そうすると、鉱山保安監督部長らの国の機関が前記監督権限を行使すべきかどうかは、その裁量に属するものというべきであるから、監督権限を行使しないことが、右国の機関の義務懈怠となることは原則としてないというべきであるが、鉱山労働者の生命、身体に対する危害やそれ以外の個々の国民の生命、身体に対し危害が及ぶような鉱害が発生する具体的危険が切迫しているにもかかわらず、鉱業権者が何らの措置もとらずに放置しており、右国の機関において、右危険の切迫を知り又は容易に知り得べき状況にあり、右国の機関がその権限を行使すれば結果発生を防止できるような、例外的状況にあるときには、もはや、裁量の余地はなく、その権限行使が義務づけられるものというべきであり、この義務に違反し権限を行使しなかったとすれば、その行為規範としての職務上の義務に違反した違法なものというべきである。
ところで、原告らは、鉱山保安監督部長がその権限を適正妥当に行使するためには、鉱務監督官が収集した最新の正確で高度な科学的情報によらなければ不可能であるから、鉱務監督官は鉱害を予知するため不断に調査・研究をすべき義務を負い、そのため鉱務監督官に立入検査・質問権が認められている旨主張するが、この立入検査・質問は「保安の監督上必要があるとき」にできる(鉱山保安法三五条一項)ものと規定されており、立入検査・質問権を行使するかどうかは鉱務監督官の裁量にゆだねられているのであって、鉱務監督官に対し、不断にこの権限を行使して常時各鉱山の保安の状況を監視すべき義務を負わせたものでないことは、この規定自体から明らかである。右規定から、一般的に鉱務監督官に各鉱山の保安の状況を不断に調査・研究すべき義務が発生するものではないといわざるを得ない。
(二) 仙台鉱山保安監督部長及び鉱務監督官の義務違反の有無
右(一)に検討したところによると、仙台鉱山保安監督部長や鉱務監督官が、亜炭採掘に起因する鉱害としての本件崩壊、ひいては本件災害が発生する具体的危険を知り又は容易に知り得べき状況にあり、その権限を行使すれば、本件災害の発生を防止できたのに、その権限を行使しなかったとすれば、その行為規範としての職務上の義務に違反した違法なものというべきである。
そこで、仙台鉱山保安監督部長や鉱務監督官に、本件崩壊発生の具体的危険の予見ないし予見可能性があったか否かについて、検討するに、仙台鉱山保安監督部長又は鉱務監督官に右予見があったことを認めるに足りる証拠はないので、以下、予見可能性について考察する。
(1) 予見可能性の判断の基準時及び判断の基礎となる事実についての資料収集手段
仙台鉱山保安監督部長及び鉱務監督官が本件崩壊発生の具体的危険を予見できたかどうかの判断の基礎となる事実は、これらの機関が行使しなかったとされる権限を行使し得た時に認識可能であったものに限られ、また、前述のとおり、違法性では当該公務員の行為時(ここでは行使し得た時)の行為規範としての職務上の義務に違反したか否かが問題とされるのであるから、その公務員が通常有すべき知識経験を基準とすべきであると解される。
そして、仙台鉱山保安監督部長及び鉱務監督官が、右の予見可能性の存否の判断の基礎となる事実を知るために収集可能な資料としては、前記3(三)(1)の「第二回以降の施業案の認可時」に掲げた各資料と、右各機関が各権限を行使し得た当時において、制度上、容易に入手可能であった一般的な諸研究成果や統計資料等が考えられる。
さらに、前述のとおり、現行鉱業法制が鉱業特許主義を採った結果、鉱害の防止を含む鉱山保安の最終責任者は鉱業権者と解されるのであるから、国の機関による監督権限の行使は、鉱業権者による鉱山保安の確保活動を援助・助長するとともに不適切なものを排除するという範囲にとどまるものである。したがって、仙台鉱山保安監督部長及び鉱務監督官は、収集可能な右各資料に基づいて、その権限を行使すべきであったかどうかを判断すれば足りるものというべきである。
(2) 鉱務監督官の立入検査・質問の経緯等
<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。
昭和二九年の松山炭鉱の鉱業権設定の許可から、同四八年の鉱業権の取消、そして本件崩壊の発生までの間に、仙台鉱山保安監督部長らの国の機関が、鉱業権者の溝口トキ外一名に対し、松山炭鉱の施業案の変更命令、鉱業停止命令、特別採掘計画の認可・変更命令、保安規程の認可・変更命令、鉱業実施に関する保安命令、鉱害防止設備命令を出したことはなかった。
この間、松山炭鉱に対する鉱務監督官の立入検査は年一〜二回行われ、記録上明らかなものとしては、①昭和四一年七月一二日と②同四二年二月七日に庄司徳雄が、③同四二年一一月三日と④同四三年二月に荒井癸酉郎が、⑤同四四年一月二一日、⑥同四四年三月六日、⑦同四四年五月六日と⑧同四八年三月に戸部隼人が上層四坑の立入検査を行った。実際に鉱山における災害の大部分を占めるのは突発的に発生する坑内の落盤によるものであることから、ともすれば軽視されがちな日常の採掘過程における遵守事項を遵守させるとともに、見逃されやすい落盤の前兆を発見することなどが、立入検査・質問の目的であり、松山炭鉱についても、この目的で行われた。
そのため、鉱務監督官は、あらかじめ松山炭鉱の施業案、保安図、前回の立入検査時の監督指示書、災害月報の集計表等の資料に基づいて、前回の監督指示事項、災害状況、人員、出炭量等を調査した上、現場に赴き、まず、鉱業権者溝口トキ及び鉱業代理人松田富夫らから、操業状況、採炭方法、採炭区域、落盤・崩壊による災害発生の有無等鉱山保安に関する事項の聴取調査を行ったが、右①の際、庄司徳雄に対し、昭和三九年に斜坑の上部の地表が陥没したとの報告はあったものの、そのほかは、従来の落盤、天盤の異変についての報告や説明は全くなかった。次に鉱務監督官は、坑内においては、坑口、坑道、採掘切羽における岩盤状況、支柱の太さと間隔、天盤及び側壁の状況を目視し、またハンマーによる打診を行って異常の有無を確認したほか、ガスの検定及び火薬の保管状況の検査等を行い、坑外においては、不用坑口の閉塞状況、file_35.jpg集積場の管理状況等の検査を実施した。もっとも、坑内まで入ったのは、右八回のうちでは、①②③⑤⑥の五回で、前記認定のとおり、いずれも新たに掘削ないし改修された部分、採掘中の切羽や採掘を終わったばかりの切羽内だけで、採掘跡には入っていない。
右立入り検査・質問の結果、鉱務監督官は、改修された上層四坑道には保安炭柱が残されており、新たに掘削された切羽二つにも保安炭柱があり、打柱が施され、file_36.jpgも五〇〜六〇パーセント充填されていたことなどおおむね施業案に沿った採掘が行われており、天盤等に特異な現象は見受けられないことを確認したが、右③の際、鉱務監督官荒井癸酉郎は、採炭切羽の打柱が全体的に少ないことを指摘して打柱密度を増し裸天盤での作業を行わせないこと、採炭切羽の断層を発見して鯖枠等で十分山固めを行うこと、運搬坑道途中の天盤に大きさ五〇〜六〇センチメートル、深さ二〇〜三〇センチメートルの円形の高落箇所を発見して裏込めなどを施して山固めを行うこと、坑道の無支柱箇所については早急に施枠することなどの監督指示を行い、また、右⑥及び⑦の際、鉱務監督官戸部隼人は、上層四坑の採炭切羽が地表に近かったことから、地表陥没を起こさないよう十分な保安炭柱を残すなどの措置をとるよう監督指示した。
なお、鉱務監督官や仙台鉱山保安監督部長に対し、鉱山労働者から、鉱山保安法等に違反する事実や危害が生じ又はそのおそれが多いとの事実の申告(同法三八条に基づく申告)はなかった。
(3) 石炭採掘に起因して土砂災害が発生するとの見解のその後について
昭和四三年ころまでの状況については、前記三3(三)(3)に検討したとおりであるので、その後の状況について検討するに、前記二5(二)(3)に認定したとおり、まず、昭和四八年九月に小出博が「日本の国土(下)」で、第二次大戦後長崎県、佐賀県に発生した多くの単発急性型地すべりについては、戦時中から戦後の石炭採掘による鉱害の疑いがあり、単純な自然現象とみることはできない、として説を改めたことが、挙げられる。
しかし、右書物は、本件崩壊発生の半年余り前に発行されたものであって、鉱務監督官や仙台鉱山保安監督部長において、直ちに入手可能とはいい難いばかりでなく、仮に、入手可能であったとしても、前記認定のとおり、石炭採掘が地すべりの発生にどのような関わりを有するかについては明確に述べていないのであって、地すべり・崩壊についての機構については勿論のこと、その関係が直接的なものかどうか、どのような現象が地すべり・崩壊の原因となり得るのかについて、不明であるから、本件崩壊発生の危険があることの予見可能性の基礎となる知見とはなり得ないものというべきである。
次に、昭和四五年二月の前記「北松型地すべりの発生機構および予知に関する研究」の中の大八木則夫外二名の見解は、石炭採掘と地すべりとの関係が直接的でないとしているだけで、そのほかは不明であり、同書中の鷲尾岳地すべりと石炭採掘との関係については、相反する二つの見解があり、この問題についての手掛りは得られていないとの見解と照らし併せると、どのような現象が地すべり・崩壊の原因となり得るかについても不明ということになり、これまた、本件崩壊発生の危険があることについての予見可能性の基礎となる知見とはなり得ないものというべきである。
次に、前記「アーバンクボタ」も、本件崩壊発生後の昭和五七年三月に発行されたものであって、いずれも本件崩壊発生前には、入手不可能であることが明らかである。
また、前記「鉄道技術研究報告」は、前掲甲第六〇号証によると、非売品であって、国鉄の内部資料であると認められるから、鉱務監督官や仙台鉱山保安監督部長において、制度上入手可能なものではなかったというべきである。
さらに、前記「石炭鉱害概論」は、福岡通産局が昭和三二年から実施してきた鉱害測量の解析結果で、本件崩壊後の昭和五〇年に刊行されたものであって、本件崩壊発生前には、入手不可能である。福岡通産局を除く他の通産局が、事前にその内容を知っていたことを認めるに足りる証拠はない。
以上のとおりであるから、前記三3(三)(3)に検討したところも併せ考えると、昭和四三年ころ以降、同四九年の本件崩壊発生の直前ころにおいても、亜炭採掘により、本件のような大規模な斜面崩壊が発生する危険があることは知られていなかったし、鉱務監督官らの国の機関において、制度上容易にその可能性を判断し得る資料を入手できたとは、到底いえないといわざるを得ない。
(4) 松山炭鉱における落盤及び斜坑口上部の地表陥没について
松山炭鉱における坑道、切羽の天盤の沈下、崩落の状況は、前記二5(三)(1)ないし(3)に検討したとおりである。
前掲甲第一〇及び第一一号証の中には、昭和三三年に上層三坑道の坑口から約二〇メートル入った地点で、上層二坑の落盤している採掘跡に掘進中の坑道が接触したため生じた松山炭鉱では最も大きい落盤が発生したとの記載があり、証人松野操平の証言(第二回)には、これに沿う供述のほか、松野操平らの現地調査の際、その場所がその後再び落盤しているのを発見したとの供述がある。
しかし、右甲第一一号証の七頁の図と前掲乙第二三号証とを対照すると、右落盤地点は上層三坑口から五〇メートル前後はあると認められ、「坑口から約二〇メートル」というのは、直ちに採用できない。また、前記認定のとおり、松野操平らが上層三坑道としたのは、上層四坑道であることに照らすと、再び落盤しているのを発見したというのも、別の場所ということになって、これもまた採用できない。さらに、証人五十嵐久雄の証言(第一回)にも、そのような落盤があったかのような供述部分があるが、五十嵐久雄は、松山炭鉱では、昭和三二年までしか稼働していなことが認められるから、昭和三三年に発生したというのも、にわかに採用できず、落盤時期を確定するに足りる証拠はない(同証人の第二回の証言によると、同人が経験したという三回の落盤は、上層一坑の中央よりもやや奥の方と最も奥の方、上層二坑の最も奥の方であって、いずれも問題の右落盤箇所ではないことが認められるから、直ちに同人の稼働中の期間とすることもできない。なお、同証人は、三回の落盤時期については、いずれも不明である旨供述している。)。
右のとおりであるから、甲第一〇及び第一一号証の右記載や証人松野操平の右供述によっては、昭和三三年に松山炭鉱で最も大きい落盤が発生したとの事実を認めるには足りないというべきである。
仮に、昭和三一年ないし三三年に大きな落盤があったとしても、前記認定のとおり、鉱務監督官や仙台鉱山保安監督部長に対し、溝口トキや鉱業代理人、鉱山労働者から、その報告もなく、鉱務監督官の立入検査・質問の際にも、同様の報告も説明もなく、坑内の天盤等に特異な現象も認められなかったのであるから、鉱務監督官らにおいて、発見できなかったものというべきである。
なお、不用坑道、坑内採掘跡には、危険防止の観点から、立入りを禁止するため警標を掲げ、さく囲や通行しゃ断の設備を設けることが義務づけられており(石炭鉱山保安規則二七五条、二七七条)、鉱務監督官においても、通常、右不用坑道等を調査すべき義務はない。
次に、<証拠>によると、昭和三九年の新潟地震の際、松山炭鉱の斜坑の上部の地表が陥没したことが認められるが、<証拠>を総合すると、右斜坑は、松山炭鉱が、昭和三六年ころから、本件崩壊により崩壊した松山山頂の三角点から北東に約四〇〇メートル離れた山麓平地に新坑を開坑し、一五度の傾斜で二〇五メートル掘進し着炭しようとして掘削していたものであり、右陥没場所も、その坑口付近であって、残所陥没現象であると認められる。
前記認定のとおり、鉱務監督官庄司徳雄は、昭和四一年七月の立入検査・質問の際、右地表陥没についての報告を受けていたが、右陥没現象は、本件崩壊の原因となり得ないものであることが明らかであるばかりでなく、前記三3(三)(3)及び4(二)(3)に検討したとおり、当時、亜炭採掘により、本件のような大規模な斜面崩壊が発生する危険があることが既に知られており、鉱務監督官らの国の機関において、制度上容易にその資料を入手し認識可能であったとは到底いえないのであるから、鉱務監督官、ひいては仙台鉱山保安監督部長が、右地表陥没の事実を知っていても、本件崩壊発生の予見可能性の基礎となる事実にはなり得ないものというべきである。
(5) 松山山頂直下の亀裂について
昭和四二年ころ、小田島留義らによって松山山頂直下に亀裂が発生していることが発見されたことは、前記二5(四)(4)に認定したとおりである。
原告らは、鉱務監督官に立入検査・質問権を認めた鉱山保安法三五条一項の規定から、鉱務監督官に鉱害を予知するため不断に調査・研究すべき義務があることを前提として、鉱務監督官には、最小限、①当該鉱山所在地及びその周辺地の地表の状況、②当該鉱山所在地及びその周辺地の地質・地形、③当該鉱山所在地及びその周辺地の過去における地表の破壊・変貌の有無と、それがある場合はその歴史と成因、を不断に調査・研究しておく義務があり、この義務を尽くしていたならば、右亀裂を容易に発見することができたはずであると主張する。
しかしながら、前述のとおり、右規定は「保安上必要があるとき」にできるものとされ、立入検査・質問権を行使するかどうかを鉱務監督官の裁量にゆだねられているのであって、鉱務監督官に対し、不断にこの権限を行使して常時各鉱山の保安の状況を監視すべき義務を負わせたものでないことは、この規定自体から明らかであるから、右規定から、一般的に鉱務監督官に各鉱山の保安の状況を不断に調査・研究すべき義務があることを導き出すことはできないといわざるを得ない。
そして、前記認定のとおり、実際に鉱山における災害の大部分を占めるのは坑内落盤によるものであるから、鉱務監督官が立入検査・質問の必要性を判断する場合にも、坑内と坑外とでは、事実上異ならざるをえないというべきである。
また、前述のとおり、鉱害の防止を含む鉱山保安の最終責任者は鉱業権者と解され、国の機関による監督権限の行使は、鉱業権者による鉱山保安の確保活動を援助・助長するとともに不適切なものを排除するという範囲にとどまるものであるから、鉱務監督官が当該鉱山について異常があることをあらかじめ知っていたとか、鉱害について新たな知見を得て調査の必要があるなどの特段の事情のない限り、鉱業権者あるいは鉱山労働者から異常がある旨の報告等を受けて初めて鉱務監督官が詳細に調査し、鉱害防止のための助言・指示を行うことで足りるものというべきである。
さらに、鉱務監督官戸部隼人が、昭和四四年三月六日と同年五月六日の立入検査・質問の際に、上層四坑の採掘切羽は地表に近かったことから、地表陥没を起こさないよう十分に保安炭柱を残すなどの措置をとるよう監督指示したことは、前記認定のとおりであるが、証人戸部隼人の証言によると、戸部隼人も、改修された上層四坑道には保安炭柱が残されており、新たに掘削された切羽二つにも保安炭柱があり、打柱が施され、file_37.jpgも五〇〜六〇パーセント充填されていたことなどおおむね施業案に沿った採掘が行われており、天盤に特異な現象は見受けられないことを確認するとともに、稼行中止中であることも確認したものの、再開もあり得ないわけではないので、右のような監督指示をしたものであって、抽象的な地表陥没の危険の認識にすぎなかったことが認められるので、そのことから直ちに同人に地表を調査すべき義務があったということはできない。
そうすると、鉱務監督官において、松山山頂直下の亀裂を発見することはできなかったものというべきであるから、右亀裂を発見できたことを前提として、鉱害の拡大、ひいては、本件崩壊発生の危険があることを予見できたはずであるとの原告らの前記主張は、採用できない。
(6) 松山の地形・地質、松山における過去の崩壊の歴史等、大量の融雪水の供給、土砂崩壊防備保安林の指定について
右の各事項については、前記三3(三)(4)ないし(7)に検討したところが、鉱務監督官や仙台鉱山保安監督部長についても、妥当するものというべきである。
以上のとおりであるから、鉱務監督官や仙台鉱山保安監督部長には、本件崩壊発生までの間に、本件崩壊発生の具体的な予見可能性があったとは認めるに足りないので、鉱務監督官や仙台鉱山保安監督部長がその職務上の義務に違反したとは認めるに足りないというべきである。
(三) 仙台鉱山保安監督部長、鉱務監督官の故意・過失
仙台鉱山保安監督部長や鉱務監督官が前記職務上の義務に違反していることを認識しながら、その権限の行使に出なかったことを認めるに足りる証拠はない。また、右に判断したところによれば、仙台鉱山保安監督部長や鉱務監督官に右職務上の義務違反があるとはいえないから、その過失も認めるに足りないというほかない。
(四) 保安監督義務違反責任のまとめ
したがって仙台鉱山保安監督部長や鉱務監督官が保安監督上の権限を行使しなかったことが違法であることを前提として被告国に責任があるとの原告らの主張は、その余の点について判断するまでもなく、採用できない。
5 被告国の保安施設事業等の施行義務違反責任
(一) 権限不行使の違法性について
原告らは、被告国の保安施設事業等の施行義務違反の責任原因として、いずれも農林大臣の、①保安施設事業の施行義務違反、②地すべり防止工事の施行義務違反を挙げ、その根拠規定は、①については森林法四一条一項、②については地すべり等防止法三条一項であって、いずれも被告国の公権力の行使にあたる公務員である農林大臣がその権限を行使しなかったことが違法である旨主張する。
そこで、検討するに、これらの規定は、農林大臣にその権限を与えたものであって、一定の要件のもとに、その権限行使を義務づける規定は存在しないので、その権限を行使するかどうかは、農林大臣の裁量に属するものというべきであるから、前述のとおり、その権限を行使しないことが、農林大臣の義務懈怠となることは原則としてないというべきであるが、国民の生命、身体に対する具体的危険が切迫し、農林大臣において、右危険の切迫を知り又は容易に知り得べき状況にあり、農林大臣が権限を行使すれば結果発生を防止できるような、例外的状況にあるときには、もはや、裁量の余地はなく、その権限行使が義務づけられるものというべきであり、この義務に違反し権限を行使しなかったとすれば、著しく合理性を欠くものであって、その行為規範としての職務上の義務に違反した違法なものというべきである。
以下、右観点も踏まえて原告らの右主張について、順次検討する。
(二) 保安施設事業の施行義務違反
原告らは、まず、本件崩壊地一帯は既に土砂崩壊防備保安林に指定されていたが、松山の崩壊の危険を抜本的に解決するため、被告国の公権力の行使にあたる公務員である農林大臣において、松山一帯を保安施設地区に指定し、被告国が保安施設事業を施行すべき義務があったのに、これを怠った旨主張する。
しかし、前記認定のとおり、本件崩壊地の中腹の東側側端部にわずかに土砂崩壊防備保安林があるものの、右保安林は、林木及び地表植生その他の地被物の直接間接の作用によって、表土の流出及び林地の崩壊を防止しようとするものであり、保安施設事業は、その目的のための「森林の造成事業又は森林の造成若しくは維持に必要な事業」であるから、そもそも保安施設事業によっても、本件崩壊のように右の作用の限界を超えた災害を防止することまで要請されていないものというべきである。
また、都道府県が保安施設事業を行う場合には、都道府県知事が農林大臣に対し保安施設地区指定の申請をすべきものとされている(同法四一条二項)が、<証拠>によると、被告県の知事から保安施設地区指定の申請がなかったこと、国も、事業の規模が著しく大であるときなどにおいて保安施設事業を行うことができるが、本件崩壊地はこれに当たらないこと、本件崩壊前の松山北斜面の植生は、前記認定のとおりで、周辺の大蔵村内の山林と比較しても一応良好な状態にあったことが認められる。したがって、被告国が直接保安施設事業を行う必要があると認められる要件さえもなかったことが認められる。
したがって、農林大臣には、松山北斜面を保安施設地区に指定すべき義務はなく、被告国において保安施設事業を施行すべき義務もなかったというべきである。
(三) 地すべり防止工事の施行義務違反
原告らは、農林大臣において、松山一帯を地すべり防止区域に指定し、被告県の負担で被告県の知事に地すべり防止工事を施行させるべき義務があったのに、右指定を怠った旨主張するので、検討する。
(1) 農林大臣の権限と義務
地すべり等防止法は、「地すべり及びぼた山の崩壊による被害を除去し、又は軽減するため、地すべり及びぼた山の崩壊を防止し、もって国土の保全と民生の安定に資することを目的とする」(一条)もので、「主務大臣は、この法律の目的を達成するため必要があると認めるときは、都道府県知事の意見をきいて、地すべり区域(地すべりしている区域又は地すべりするおそれのきわめて大きい区域をいう。以下同じ。)及びこれに隣接する地域のうち地すべり区域の地すべりを助長し、若しくは誘発し、又は助長し、若しくは誘発するおそれのきわめて大きいもの(以下これらを「地すべり地域」と総称する。)であって、公共の利害に密接な関連を有するものを地すべり防止区域として指定することができる」(三条一項)と定めており、森林法二五条一項の規定により指定された保安林の存する地すべり地域に関しては、地すべり防止区域の指定の主務大臣は、農林大臣となる(地すべり等防止法五一条一項二号)。
そして、「林野の保全に係る地すべり等防止事業の実施について」(昭和三三年七月八日付け林野第八三一六号林野庁長官通達)によると、都道府県知事は、地すべり防止区域の指定を受けようとするときは、地すべり防止区域の指定申請を主務大臣に提出するものとされており、「地すべり防止区域指定基準」(昭和三三年七月三日付け建設、農林、大蔵の三省の申合せ)によると、地すべり区域の面積が五ヘクタール以上(ただし、この基準に該当しないが、家屋の移転を行うため、特に必要がある場合には指定することができる。)のものとされている。ところで、地すべり防止区域に指定されると、都道府県の負担において知事が地すべり防止工事を施行すべきものとされている(同法七条、二七条)ことから、地すべり防止工事に伴う土地所有者の土地利用権に対する制約や都道府県の予算上の制約等も考慮し、現に地すべりしている区域は別として、全国多数の地すべり危険区域のうちより危険性の高い地区(同法三条の「地すべりするおそれがきわめて大きい区域」)を、できるだけ狭い区域に区切って(同法三条二項参照)指定することが要請され、実際にも、広大な国土の中から地すべり危険区域を選別するための調査をするのに、すべていちいち現地調査等の詳細な調査を行うのは、非現実的であり、法の要請するところでもないというべきである。
したがって、地すべり等防止法の趣旨からみると、農林大臣において、個々の斜面等について個別的に地すべり発生の高度の具体的危険が予見できるとき(「地すべりするおそれがきわめて大きい」と予見できるとき)に、その斜面等を地すべり防止区域に指定することが要請されているというべきである。
そこで、農林大臣において、松山北斜面に地すべり発生の高度の具体的危険ないし本件のような大規模な斜面崩壊が発生し住民の生命、身体に対する具体的危険が切迫していたことを予見できたか否かについて、さらに検討する。
(2) 林野庁における災害危険箇所総点検の経緯
<証拠>によると、次の事実が認められる。
山形県内については、本件崩壊発生前の昭和四七年に、林野庁において「山地に起因する災害危険箇所の総点検について」(昭和四七年七月一四日付け四七林野治第一七二五号林野庁長官通達)による「山地に起因する災害危険箇所の総点検実施要領」に基づき、山腹崩壊、山津波等が現に発生し、又は発生する危険のある森林又は原野について、山腹崩壊危険地区、崩壊流出危険地区及び地すべり発生危険地区に分けて、航空写真、地形図、地質図及び過去の災害記録等による調査が行われた。その結果、大蔵村については、山腹崩壊危険地区一一箇所、崩壊流出危険地区一箇所、地すべり発生危険地区三箇所の合計一五箇所が予想危険箇所とされたが、松山北斜面については、前述のように、滑落崖とそれに続いて緩斜面があるというようないわゆる典型的な地すべり地形が認められず、過去に崩壊を起こしたとの記録もなかったことから、この調査時における調査対象選別基準では、調査対象とはなり得ず、予想危険地区として決定されなかったので、右要領に基づく踏査確認も行われなかった。なお、松山山頂直下の亀裂について、地元住民から、被告国の機関に対し通報もなかった。
(3) 農林大臣の予見可能性
右認定のとおり、山地に起因する災害危険箇所について、林野庁が昭和四七年に航空写真、地形図、地質図及び過去の災害記録等により行った調査では、松山北斜面は典型的な地すべり地形が認められなかったことなどから、予想危険地区とされなかったものであり、また、航空写真では、山頂直下の亀裂は確認できないものであることは、前記認定のとおりである。
さらに、前記認定のとおり、松山北斜面のような地形・地質は、我が国においては格別珍しいものではないこと、本件崩壊前の松山北斜面の植生は、周辺の大蔵村内の山林と比較しても一応良好な状態にあったこと、過去三回にわたって、松山の東側や東南側の斜面が崩壊していたとしても、松山北斜面は、右のとおり、典型的な地すべり地形でないのであるから、直ちに北斜面の崩壊の予見を可能にする事実とはいえないこと、大量の融雪水の供給及び土砂崩壊防備保安林の指定については、前記三3(三)(6)及び(7)に述べたところが、そのまま妥当することなども併せ考えると、農林大臣において、地すべり防止区域指定の前提として、松山北斜面における地すべり発生の高度の具体的危険を予見することや、松山北斜面に本件のような大規模な崩壊が発生し住民の生命、身体に対する具体的危険が切迫していることを予見することが可能であったとは、認めるに足りないというべきである。
そうすると、農林大臣には、本件崩壊前に松山北斜面を地すべり防止区域に指定すべき義務はなかったというべきである。
(四) 農林大臣の故意・過失
農林大臣が前記職務上の義務に違反していることを認識しながら、その権限の行使に出なかったことを認めるに足りる証拠はない。また、右に判断したところによれば、農林大臣に右職務上の義務違反があるとはいえないから、その過失も認めるに足りないというほかない。
(五) 防災義務違反責任のまとめ
したがって、農林大臣に保安施設事業の施行義務違反ないし地すべり防止工事の施行義務違反があることを前提として被告国に責任があるとの原告らの主張は、その余の点について判断するまでもなく、採用できない。
四被告県の責任の存否
次に、被告県の責任の存否について、順次判断する。
1 権限不行使の違法性について
原告らは、被告県の責任原因として、いずれも県知事(③については、被告県の防災会議も)の、①急傾斜地崩壊危険区域の指定及び崩壊防止工事施行等の義務違反、②保安施設事業等の施行義務違反(保安施設事業の施行義務違反及び地すべり防止工事の施行義務違反)、③防災義務違反を挙げ、その根拠規定は、①については、急傾斜地法三条一項、一二条一項等を、②については、森林法四一条二項、地すべり等防止法七条を、③については、災害対策基本法五〇条二項、七〇条一項等であって、いずれも被告県の公権力の行使にあたる公務員である知事(③については、被告県の防災会議も)がその権限を行使しなかったことが違法である旨主張する。
そこで、検討するに、これらの規定は、知事にその権限を与えたものであって、一定の要件のもとに、その権限行使を義務づける規定は存在しないので、その権限を行使するかどうかは、知事の裁量に属するものというべきであるから、前述のとおり、その権限を行使しないことが、知事の義務懈怠となることは原則としてないというべきであるが、住民の生命、身体に対する具体的危険が切迫し、知事において、右危険の切迫を知り又は容易に知り得べき状況にあり、知事が権限を行使すれば結果発生を防止できるような、例外的状況にあるときには、もはや、裁量の余地はなく、その権限行使が義務づけられるものというべきであり、この義務に違反し権限を行使しなかったとすれば、著しく合理性を欠くものであって、その行為規範としての職務上の義務に違反した違法なものというべきである。
以下、右観点も踏まえて原告らの右主張について、順次検討する。
2 被告県の急傾斜地法違反責任
被告県の知事が松山北斜面を急傾斜地崩壊危険区域に指定しなかったことは、原告らと被告県との間で争いがない。
原告らは、被告県の知事は、松山北斜面を急傾斜地崩壊危険区域に指定し、崩壊防止工事を施行するなどの義務があったのに、これを怠ったため本件災害を発生させた旨主張するので、検討する。
(一) 県知事の権限と義務
県知事は、「崩壊するおそれのある急傾斜地で、その崩壊により相当数の居住者その他の者に危害が生ずるおそれのあるもの」を急傾斜地崩壊危険区域として指定し(急傾斜地法三条一項)、急傾斜地崩壊危険区域の土地の所有者、管理者らに対し、崩壊防止工事の施行を勧告し(同法九条三項)、又は自らが崩壊防止工事を施行する(同法一二条一項)などの権限を有していたことは、原告らと被告県との間では争いがない。
そこで、被告県の知事において、松山北斜面に本件のような大規模な斜面崩壊が発生し、住民の生命、身体に危害が及ぶような具体的危険が切迫していたことを予見できたのに、急傾斜地崩壊危険区域に指定しなかったか否かについて検討する。
(二) 急傾斜地実態調査の経緯
<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。
(1) 我が国経済のめざましい発展に伴って、人工の都市集中を招き、都市周辺の山地丘陵の開発が進み、なかには無秩序な宅地造成等の開発行為もあって、昭和三三年ころから、特に市街地周辺のがけ崩れによる災害が多発する傾向にあったところ、昭和四二年七月の西日本豪雨、同八月の羽越豪雨等により死者・行方不明者一五八名に及ぶ大災害が発生し、特にがけ崩れによる災害が目立ったことが直接の契機となって、昭和四四年に急傾斜地法が制定された。
こうした状況のもとで、建設省は、各都道府県に対し昭和四二年には急傾斜地の全国実態調査を、同四四年八月五日付けでは、急傾斜地法が同月一日から施行されたことに伴って急傾斜地の再調査を、次いで、同四六年一〇月一四日付けでは急傾斜地崩壊危険箇所の総点検をそれぞれ指示した。
そして、急傾斜地法施行に伴う「急傾斜地崩壊危険区域の指定について」(昭和四四年八月二五日建設省河砂発第五四号知事あて建設省河川局長通達)によると、急傾斜地崩壊危険区域の指定は、①急傾斜地の高さが五メートル以上のもので、②急傾斜地の崩壊により危険が生ずるおそれのある人家が五戸以上あるもの、又は五戸未満であっても、官公署、学校、病院、旅館等に危害が生ずるおそれのあるものについて行うものとされ、指定にあたっては、急傾斜地崩壊防止工事(都道府県営工事)を施行したもの、施行中のもの、若しくは施行するもの、災害を受けたもの、危険度の高いもの又は急傾斜地の崩壊により危害が生ずるおそれのある人家戸数の多いもの等について考慮の上、緊要なものから順次、速やかに指定するものとされた。
さらに昭和四七年七月五日の集中豪雨に起因する繁藤災害が発生したことを契機にして、建設省は、各都道府県知事あてに、同月一一日付けの「急傾斜地の崩壊等による災害危険箇所の総点検の実施及び警戒避難体制の確立について」という事務次官通達(四七総点検)を出した(建設省から各都道府県知事あてにこの通達が出されたことは、原告らと被告県との間では争いがない。)。
四七総点検は、右通達によれば、「関係市町村その他の関係機関との緊密な連絡及び協力のもとに、……土砂害による災害の発生が予想される危険箇所の総点検を別添要綱により、早急に実施し、点検によって得られた結果を付近住民に周知徹底せしめるとともに、緊急時における警戒避難体制の確立に万全を期」すとともに、「必要と認められた箇所については、すみやかに急傾斜地崩壊危険区域の指定を行い、管理の徹底を期」することにあり、その「実施要綱」によれば、①傾斜度三〇度以上、高さ五メートル以上の急傾斜地で人家一戸以上ある地域を小字単位で急傾斜地帯として、空中写真、地形図、地質図等で概査して地形図に図示し、②急傾斜地帯の中から、傾斜度三〇度以上、高さ五メートル以上、人家五戸以上(五戸未満であっても、官公署、学校、病院、駅、旅館等のある場合を含む)の箇所を急傾斜地崩壊危険箇所として、現地で踏査確認した上、崩壊危険箇所について傾斜度、高さ、長さ、地質、表土の厚さ、人家戸数等詳細な診断を実施するものとされた。また、同月二〇日付けの建設省河川局砂防部長の「実施要領」は、急傾斜地帯調査、急傾斜地崩壊危険箇所の診断について、より詳細に定めたもので、それによれば、実施要綱にいう「人家一戸以上」「人家五戸以上」というのは、「想定被害区域内」に人家一戸以上とか人家五戸以上という意味で、想定被害区域は、「急傾斜地下部(がけ下)」については、「急傾斜地下端から水平に急傾斜の直高の二倍の距離とし、五〇メートルを限度とする。ただし、地形、地質に応じ過去の災害実績を勘案して前記数値以上としてよい」とされ、急傾斜地崩壊危険箇所の危険度の判定については、点数制基準が定められている。
(2) 被告県は、四七総点検の通達を受けて、昭和四七年七月三一日に大蔵村を含む新庄建設事務所管内の市町村の担当者を集めて四七総点検実施の説明会を開催し、大蔵村からは、土木課長八鍬三郎、総務課庶務係長斉藤誠が出席した。大蔵村は、その後、まず、空中写真、地形図、地質図等による図上調査によって、同村管内の急傾斜地帯の調査を行い、二一箇所の調査結果をまとめた急傾斜地帯調査表を同年八月一二日付けで被告県の新庄建設事務所あてに送付した。右調査表には、急傾斜地帯として、松山の東斜面の山麓近くの急斜面とその直下の人家を含む地域が「赤松山地帯」として、また、本件崩壊による土砂流が到達した松山北斜面の山麓平地の西北側にある高さ一〇メートルを超す急斜面(その後の現地調査によると、傾斜度五〇度、長さ三〇〇メートル、高さ一五メートル)とその直下の人家を含む地域が「赤松地帯」として入っているが、本件崩壊地はその中に入っていなかった。次いで、大蔵村は、右二一箇所のうち九箇所の急傾斜地危険箇所について、現地で踏査確認して、傾斜度、高さ、長さ、地質、湧水等の有無、過去の崩壊の有無、地被物の状況、公共施設等を調査した結果をまとめた急傾斜地崩壊危険箇所調査表を同年一〇月六日付けで新庄建設事務所あてに送付した。
(三) 知事の予見可能性
(1) 急傾斜地帯該当の有無
原告らは、まず、松山北斜面が、四七総点検実施要綱にいう急傾斜地帯に該当することは、「空中写真、地形図、地質図等で」明らかであるから、現地で踏査確認した上、詳細な診断を実施すべきであり、現地踏査を行っていたならば、松山北斜面が危険度の最も高いAランクに該当することを容易に認識できたはずである旨主張する。
しかしながら、右認定のとおり、右実施要綱にいう急傾斜地帯の要件である「人家一戸以上」というのは、前記実施要領によれば、「想定被害区域内」に人家一戸以上という意味であって、一応「急傾斜地下端から水平に急傾斜地の直高の二倍の距離とし、五〇メートルを限度とする」とされており、「急傾斜地の下端から」というのは、傾斜度三〇度未満になる地点からと解されるところ、成立に争いのない丙第一八号証及び弁論の全趣旨によると、本件崩壊地には、急傾斜地の下端から最も近い人家(原告大竹清方)まででも約六〇メートル以上あり、その次に近い人家までは約一四四メートルあることが認められるから、右の要件には該当しない。また前記認定のとおり、地形、地質に応じ過去の災害実績を勘案して前記の数値以上にしてもよいとされていたが、松山北斜面には過去に崩壊を起こしたとの記録もないことは、前述のとおりであるから、この場合にも当たらないというべきである。
仮に、原告大竹清方が限界線上に近いということで、人家一戸以上の要件に該当し、急傾斜地帯に入るとしても、右認定のとおり、人家五戸以上という要件がなかったことは明らかであるから、松山北斜面は、前記実施要綱にいう急傾斜地崩壊危険箇所に当たらないので、被告県の知事が右実施要綱に基づいて、松山北斜面を現地に踏査確認すべき義務はなかったといわざるを得ない。
さらに、危険度の判定は、急傾斜地崩壊危険箇所について問題となるものであるから、急傾斜地崩壊危険箇所に当たらない松山北斜面については、そもそも危険度の判定は問題となる余地がないというべきである。
したがって、松山北斜面が四七総点検の実施要綱にいう急傾斜地帯に該当することを前提に、被告県の知事において、現地踏査をすれば、その危険性を容易に認識できたはずであるとの原告らの右主張は、採用できない。
(2) 東側区域の急傾斜地崩壊危険区域の指定
被告県の知事が、昭和四七年七月二六日山形県告示第一一四八号をもって、本件崩壊地の東側の区域(前記赤松山地帯)を急傾斜地崩壊危険区域に指定したことは、原告らと被告県との間で争いがない。
原告らは、このように、本件崩壊地の東側の区域を急傾斜地崩壊危険区域に指定していたのであるから、被告県の知事は、四七総点検の結果を待つまでもなく、松山北斜面に崩壊が発生する危険があることを予見できる、①松山の地形・地質、②本件崩壊地一帯が土砂崩壊防備保安林に指定されていたこと、③本件崩壊地の東側と東南側の過去の崩壊、周辺地域で発生した地表の陥没・崩壊の歴史、④松山の地下で亜炭採掘が行われてきたこと、を認識していたはずであるから、四七総点検の際に、松山北斜面を現地に踏査確認すべきであった旨主張する。
しかしながら、前述のとおり、松山北斜面のような地形・地質は、我が国においては格別珍しいものではなく、典型的な地すべり地形も呈していないので、松山北斜面の地形・地質を認識したからといって、その崩壊を予見することが可能であるとはいえないこと、本件崩壊地の中腹の東側側端部にわずかに土砂崩壊防備保安林があるだけである上、右保安林は、林木及び地表植生その他の地被物の直接間接の作用によって、表土の流出及び林地の崩壊を防止しようとするものであると解されるから、土砂崩壊防備保安林に指定されたからといって、直ちに本件のように右の作用の限界を超えた崩壊を予見することが可能であるとはいえないこと、過去三回にわたって、松山の東側や東南側の斜面が崩壊していたとしても、松山北斜面は典型的な地すべり地形も呈していないばかりか、本件崩壊前の松山北斜面の植生は、周辺の大蔵村内の山林と比較しても一応良好な状態にあったので、東側や東南側の崩壊歴が直ちに松山北斜面の崩壊の予見を可能とする事実とはいえないこと、さらに、前記三3(三)(3)及び4(二)(3)で検討したとおり、本件崩壊直前ころにおいても、亜炭採掘により本件のような崩壊が発生する危険があることは、知られていなかったのであるから、亜炭採掘が行われた事実を認識していたとしても、それを直ちに斜面崩壊の予見と結びつけることもできないことなどを併せ考えると、右①ないし④の事情はいずれも松山北斜面に崩壊発生の危険があることの予見を可能とする事実ではないというべきである。
したがって、本件崩壊地の東側の区域を急傾斜地崩壊危険区域に指定したからといって、被告県の知事に、本件崩壊地を現地踏査すべき義務が生ずるものとはいえず、また、松山北斜面に崩壊発生の危険があることを予見できるようになったものともいえない。
さらに、前掲丙第一七号証の六によると、四七総点検の現地踏査では、本件崩壊地の東側の赤松山地帯は、傾斜度四〇度、高さ四〇メートル、長さ八〇メートル、想定被害区域内に人家七戸、過去の崩壊歴もあることなどから、危険度Aと診断され、肘折(傾斜度七〇度、高さ六〇メートル、長さ六〇〇メートル、想定被害区域内に人家六九戸、過去の崩壊歴もあることなどから、同じく危険度Aと診断された。)に次いで大蔵村内で急傾斜地崩壊危険区域に指定されたことが認められ、想定被害区域内の人家の戸数等では、松山北斜面と相当異なり、直ちに同一視できないというべきである。
(3) 崩壊の危険の認識可能性
右(1)、(2)に検討したところによれば、被告県の知事には、松山北斜面を現地に踏査確認すべき義務はなかったというべきであり、本件崩壊地の東側の区域を急傾斜地崩壊危険区域に指定したことも、原告ら主張の右(2)①ないし④の事情も、いずれも松山北斜面に崩壊の危険があることを予見できるような事実とはならないので、被告県の知事が、松山北斜面に本件のような崩壊が発生し住民の生命、身体に対する具体的危険が切迫していることを容易に知り得たものとは認められない。
そうすると、被告県の知事に、松山北斜面の現地踏査の義務があることを前提に、現地踏査を行っていたならば、松山北斜面山頂直下の亀裂を容易に発見することが可能であり、右亀裂を発見したなら、被告県の防災会議の委員に就任している仙台鉱山保安監督部長の知見を得て調査・研究が可能であるから、被告県の知事が松山北斜面の崩壊危険箇所を認識予見することも容易に可能であったとの原告等の主張も、採用できない。
(四) 知事の故意・過失
被告県の知事が前記職務上の義務に違反していることを認識しながら、その権限の行使に出なかったことを認めるに足りる証拠はない。また、右に判断したところによれば、被告県の知事に右職務上の義務違反があるとはいえないから、その過失も認めるに足りない。
(五) 急傾斜地法違反責任のまとめ
したがって、被告県の知事に急傾斜地法上の義務違反があることを前提として、被告県に責任があるとの原告らの主張は、その余の点について判断するまでもなく、採用できない。
3 被告県の保安施設事業等の施行義務違反責任
(一) 保安施設事業の施行義務違反
原告らは、本件崩壊地一帯は既に土砂崩壊防備保安林に指定されていたが、崩壊の危険があったのであるから、被告県の知事は、松山一帯の保安施設事業を施行すべき義務があり、その実施のため農林大臣にその旨の申請をすべき義務があったのに、これを怠った旨主張する。
しかし、前記三5(二)で検討したとおり、そもそも保安施設事業によっても、本件崩壊のような災害を防止することまで要請されていない上、本件崩壊前の松山北斜面の植生は、一応良好な状態にあって、保安施設事業を行う必要もなかったのであるから、被告県の知事には、松山北斜面の保安施設事業を施行すべき義務や、その実施のため農林大臣にその旨の申請をすべき義務はなかったというべきである。
(二) 地すべり防止工事の施行義務違反
原告らは、被告県の知事は、農林大臣に意見を具申して松山一帯を地すべり防止区域に指定させ、地すべり防止工事を施行すべき義務があったのに、これを怠った旨主張する。
保安林の存する地すべり地域に関しては、農林大臣が都道府県知事の意見をきいて地すべり防止区域の指定権限を有すること、前記林野庁長官通達及び建設、農林、大蔵の三省の申合せの内容、地すべり等防止法の趣旨からみると、個々の斜面等について個別的に地すべり発生の高度の具体的危険が予見できるとき(同法三条一項の「地すべりするおそれがきわめて大きい」と予見できるとき)に、その斜面等を地すべり防止区域に指定することが要請されているというべきであることは、前記三5(三)(1)で検討したとおりである。
したがって、地すべり等防止法の趣旨からみると、知事において、個々の斜面等について個別的に地すべり発生の高度の具体的危険が予見できるときに、農林大臣に対し地すべり防止区域指定の意見を具申することが要請されているものというべきである。
被告県の知事が、松山北斜面に本件のような崩壊が発生し住民の生命、身体に対する具体的危険が切迫していることを容易に知り得たものとは認められないことは、前記四2(三)に検討したとおりであって、被告県の知事において、松山北斜面に地すべり発生の高度の具体的危険を予見できたことを認めるに足りる証拠はないというべきである。
そうすると、被告県の知事には、農林大臣に意見を具申して松山北斜面を地すべり防止区域に指定させ、地すべり防止工事を施行すべき義務はなかったというべきである。
(三) 知事の故意・過失
被告県の知事が前記職務上の義務に違反していることを認識しながら、その権限の行使に出なかったことを認めるに足りる証拠はない。また、右のとおり、知事に右職務上の義務違反があるとはいえないから、その過失も認めるに足りないというほかない。
(四) 保安施設事業等の施行義務違反責任のまとめ
したがって、被告県の知事に保安施設事業の施行業務違反ないし地すべり防止工事の施行義務違反があることを前提に、被告県に責任があるとの原告らの主張は、その余の点について判断するまでもなく、採用できない。
4 被告県の防災義務違反責任
(一) 被告県の防災会議の調査義務違反
仙台鉱山保安監督部長が被告県の防災会議の委員になっていることは、原告らと被告県との間で争いがない。
原告らは、仙台鉱山保安監督部長が、松山北斜面の調査・研究義務を尽くして本件災害を予見できたのにこれを怠ったことは、被告県の防災会議を構成する委員としての過失であるばかりでなく、被告県の防災会議の過失とみなされ、その結果、被告県の防災会議は、本件災害を予見できたのに、これを予見せず、何らの対策や措置をとらなかった旨主張する。
しかし、前記三4(二)で検討したとおり、仙台鉱山保安監督部長には、本件崩壊発生の具体的な予見可能性があったとは認められないのであるから、同部長に右の予見可能性があったことを前提とする原告らの右主張は、採用できない。
(二) 被告県の知事の危険回避義務違反
原告らは、赤松部落の住民から通報を受けて松山北斜面の雪割れ現象を現地調査した大蔵村役場の吏員が、昭和四九年三月二八日ころ被告県に連絡した旨主張する。
<証拠>を総合すると、原告小田島留義は、本件崩壊発生の約一か月前の昭和四九年三月二八日ころ、本件崩壊による土砂流が到達した自宅の玄関先から、原告小田島寅吉とともに、松山北斜面の中腹の上部付近に雪割れができているのを発見し、危険を感じて、松山北斜面に最も近い位置に所在する原告大原清方へ連絡したこと、大蔵村役場土木課長の八鍬三郎は、そのころ、新聞配達の者から、赤松の大竹方で、雪崩が来ないかと心配しているとの連絡を受け、早速現地に赴き、原告大竹清方のすぐ上の斜面を踏査し、長さ五〜六メートル、幅約一〇センチメートルの雪割れを発見し、役場に戻ってから、助役に口頭で報告したこと、以上の事実が認められる。
そして、<証拠>によると、昭和四九年六月二七日の大蔵村議会において、当時の村長が、その時の処理について土木課長から後で聞いた話として、地元から雪にひびがはいっているから見てもらいたいとのことで、現地を見たが雪の上からなので地盤までひびが入っているかどうかは確認できなかったが、それも上部の県の建設事務所の方には連絡しており、いずれ雪が消えてから現地を見てもらうことになっていた旨答弁していることが認められ、右事実によると、あたかも土木課長が被告県の建設事務所に連絡したかのようにみえる。
しかし、<証拠>によると、八鍬三郎は、同村議会において、今年の冬は豪雪で雪崩の危険があるので調査してもらいたいとの連絡が多くあり、その都度現地に行き危険な所の雪は部落の応援を得て雪を取り除いた、赤松から雪崩の危険があるので見てもらいたいと連絡があったので、防災の係の斉藤誠と二人で現地を見て来たが、雪に亀裂があったが雪が多く山の亀裂は見えなかった、帰って来て助役にそのことを話した旨答弁していることが認められ、被告県の建設事務所に連絡したことは窺えない。また、証人八鍬三郎の証言中には、同旨の供述のほか、原告大竹清方のすぐ上の斜面で発見した雪割れは雪が消える時期によく見られる雪割れであって、付近には杉や雑木が生えているので、雪崩れの心配はないと判断し、役場に帰ってからも、助役に口頭でその旨報告しただけで、被告県の新庄建設事務所の方へは、連絡しなかったが、四月の初めころ、建設事務所に電話したついでに、融雪期には河川の決壊とか小規模な山崩れ等が毎年のようにあるので、そうした点を雪が消えたら調査してもらいたいと連絡したことがあり、本件災害後に村長にそのことを教えた旨の供述がある。
土木課長の八鍬三郎が赤松部落の住民から雪崩の危険があるとの連絡を受けて現地調査をした際、雪崩防止の雪の取り除き作業をした形跡は窺えないので、原告大竹清方のすぐ上の斜面にあった雪割れは、右供述のとおり、雪崩の危険はないと判断されるようなものであったものと推認され、そうであるとすれば、被告県の建設事務所に連絡する必要性はなかったと考えられる。また、原告小田島寅吉(第一回)及び同小田島留義各本人尋問の結果によると、小田島留義らは、大竹清方へ連絡した後は、雪割れについてさして気にも止めていなかったことが認められ、赤松部落で騒ぎになるほどの雪割れではなかったものと推認される。
そうすると、右甲第四六号証中の大蔵村議会の村長の前記答弁によっては、松山北斜面の雪割れについて被告県に連絡したことを認めるに足りないものというべく、他に右のような連絡をしたことを認めるに足りる証拠はない。
さらに、<証拠>によると、東京へ出稼ぎに行っていた原告大竹清が、妻からの連絡を受けて帰宅し、同年四月一一日ころ、約二時間にわたって、松山北斜面を踏査したが、下に土が見えるような雪割れを発見することはできなかったことが認められ、原告小田島留義や八鍬三郎が発見した雪割れが、その当時も存在したかどうか疑問も生ずる。また、前掲甲第一〇号証(松野操平らの報告書)の中には、原告小田島留義が発見した雪割れの位置は、本件崩壊のいわゆる「すべり底面」の末端部となった位置と一致し、湧水線とも一致しており、このことは、崩壊に先立って湧水が多くなったか、あるいはこの部分の地盤が動いたか、いずれにしても崩壊の先駆現象が発生していたことを裏書きするものであるとの記載があり、前掲甲第一一号証の中には、昭和五〇年一二月一四日にその位置に再現したという雪割れの写真があるが、<証拠>によると、原告小田島留義らが発見したという雪割れの位置は、湧水線よりも水平距離で二五メートル程度は離れていることが認められるので、本件崩壊の先駆現象とみるのも疑問がある。
いずれにせよ、大蔵村の吏員が雪割れ現象について被告県に連絡したとの事実は認められないというべきである。
なお、原告らは、被告県が大蔵村から連絡を受けていなかったとしても、仙台鉱山保安監督部長が認識できた以上、県知事が雪割れを認識すべきであった旨主張するが、前記三4(二)で検討したとおり、鉱務監督官には、一般的に各鉱山の保安の状況を不断に調査・研究すべき義務はなく、鉱務監督官や仙台鉱山保安監督部長には、本件崩壊発生の具体的予見可能性があったとは認められないのであるから、仙台鉱山保安監督部長が雪割れ(もっとも、この雪割れが本件崩壊の先駆現象とみるのには疑問があることは、右のとおりである。)を認識できたとはいえないから、右主張も採用できない。
したがって、大蔵村の吏員が被告県に雪割れについて連絡したこと、ないしは被告県の知事が雪割れ現象を認識できたことを前提に、被告県の知事において、災害対策基本法や被告県の防災計画に基づき避難等の措置をとるべきであったとの原告らの主張も、採用できない。
(三) 知事の故意・過失
被告県の知事が前記職務上の義務に違反していることを認識しながら、その権限の行使に出なかったことを認めるに足りる証拠はない。また、右に判断したところによれば、被告県の知事に右職務上の業務違反があるとはいえないから、その過失も認めるに足りない。
(四) 防災義務違反責任のまとめ
したがって、被告県の知事に災害対策基本法等の義務違反があることを前提として、被告県に責任があるとの原告らの主張は、その余の点について判断するまでもなく、採用できない。
五結論
以上の次第で、原告らの被告らに対する本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官齋藤清實 裁判官小野田禮宏 裁判官永野圧彦は転補のため署名捺印することができない。裁判長裁判官齋藤清實)
別表第一 請求金額一覧表
原告氏名
主位的請求金額
予備的請求金額
1
山下善太郎
一四三一万四七三八円
一三二二万円
2
山下善作*
六九八万一五八五円
三四五万円
3
山下秀夫
一九九万四七三八円
一一五万円
4
山下秀二
一九九万四七三八円
一一五万円
5
山下 弘
一九九万四七三八円
一一五万円
6
鮎澤カツ子
一九九万四七三八円
一一五万円
7
五十嵐悦子
四二四七万七一二七円
二八六五万円
8
髙田美智子
三九三九万七一二七円
二八六五万円
9
五十嵐佳子
三九三九万七一二七円
二八六五万円
10
五十嵐幸一
八八一万五八五四円
四六〇万円
11
大場テツエ
八八一万五八五四円
四六〇万円
12
廣中キク子
八八一万五八五四円
四六〇万円
13
高橋トメ子
八八一万五八五四円
四六〇万円
14
八鍬芳蔵
一五九五万七〇六一円
一三九八万円
15
八鍬次男
一九〇万円
一九〇万円
16
八鍬弘孝
三六三万七〇六一円
一九〇万円
17
加藤秀正
三六三万七〇六一円
一九〇万円
18
八鍬冨雄
三六三万七〇六一円
一九〇万円
19
矢口ミツヨ
三六三万七〇六一円
一九〇万円
20
佐藤 登
三五〇七万円
三五〇七万円
21
佐藤 茂
二二八八万五二〇八円
二三〇〇万円
22
佐藤正子
二二八八万五二〇八円
二三〇〇万円
23
小屋マツ子
五六一〇万七三八九円
二〇七〇万円
24
武田ふじ子
七二九万四五六四円
八六二万円
25
小屋 学
七二九万四五六四円
八六二万円
26
小屋 功
七二九万四五六四円
八六二万円
27
八鍬博見
三五四七万七四九七円
一六六七万円
28
八鍬アエ子
二五一五万二二三五円
五七五万円
29
八鍬なみ子
四四〇万円
四六〇万円
30
井之川久美子
四四〇万円
四六〇万円
31
田中さゆり
四四〇万円
四六〇万円
32
山下勝也
二四三六万八八八三円
二一八五万円
33
山下ゆかり
九八〇万〇八三四円
八四二万円
34
山下里美
九八〇万〇八三四円
八四二万円
35
山下早苗
九八〇万〇八三四円
八四二万円
36
五十嵐軍次郎
一二〇七万円
一二〇七万円
37
五十嵐サタエ
一二〇七万円
一二〇七万円
38
小田島留義*
一二〇七万円
一二〇七万円
39
小田島寅吉
一二〇七万円
一二〇七万円
40
加藤藤一郎
一二〇七万円
一二〇七万円
41
佐藤武平*
一二〇七万円
一二〇七万円
42
三原芳助
一二〇七万円
一二〇七万円
43
八鍬 巌
一二〇七万円
一二〇七万円
44
八鍬トメヨ
一二〇七万円
一二〇七万円
45
大竹 清
一〇三五万円
一〇三五万円
46
五十嵐政芳
一二〇七万円
一二〇七万円
(* 訴訟受継)
別紙別表第二~第七<省略>
別図第一 松山北斜面縦断面図
file_38.jpg200, 150 100 200 190 180 170 160 150 40 130 120 no 100 | ow wan— vesvony hago ON Hie uae ae na | Jem VB-A. ——> 1/600
別紙別図第二~第九<省略>